今年春から初夏の日本の音楽シーズンでは、山田和樹(1979年生まれ)、川瀬賢太郎(1984年生まれ)と、30歳前後(アラサー)の指揮者が活動の場を破竹の勢いで広げた。相次ぐ巨匠の死と同時進行の快進撃は、指揮者たちの世代交代を強く印象づける。
スイス・ロマンド管弦楽団と「凱旋」した山田
鮮やかな凱旋公演だった。山田は去る7月4~12日、首席客演指揮者を務めるスイス・ロマンド管弦楽団(ジュネーブ)と初めての日本ツアーに臨んだ。9日間に8公演のハードスケジュールに、ロンドン在住の藤倉大(1977年生まれ)が作曲した新作「Rare Gravity(まれなる重力)」の世界初演、2人のバイオリニストとの協奏曲、アマチュアの武蔵野合唱団との共演を盛り込み、各地で大きな喝采を浴びた。
名古屋と横浜、東京、倉敷、熊本の5カ所でチャイコフスキーの協奏曲を独奏したベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスター、樫本大進は山田と同年齢で本拠がベルリン、妻も日本人演奏家と共通点が多い。「しばしば夫婦4人で食事をともにしながら、スイス・ロマンドとの日本ツアーの想を練った」(山田)という。樫本は国際コンクール優勝者を数多く輩出したロシア人教師、ザハル・ブロンの薫陶を受けたが、ドイツ音楽の深奥を究めたいとの思いからベルリン・フィル元コンサートマスターのライナー・クスマールの門下に転じ、世界最高峰のオーケストラのリーダーポストを射止めた。
盟友の山田が「故郷に錦を飾る」に際し、しばらく封印してきたチャイコフスキーの傑作へ戻り、「ロシア節」満載のワイルドな演奏で山田をあおりにあおった。あまりの白熱に第1楽章の終わった時点でもう、拍手が飛び出した。フィナーレ(第3楽章)の追い込みは一段と激烈。熱狂する客席に向け、J・S・バッハの無伴奏バイオリン曲の一節をアンコールした時の樫本は、すでにドイツ音楽の厳格な論理、様式の使徒に戻っていた。
後半のベルリオーズ作曲「幻想交響曲」は1818年に楽団を創立した指揮者、エルネスト・アンセルメ(1883~1969年)の時代から、スイス・ロマンドが得意とする作品。今年は米ボストン交響楽団、フランス国立リヨン管弦楽団なども日本ツアーに携え、激戦の様相を呈している。もう1演目のメーンにもアンセルメとスイス・ロマンドの十八番だったリムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」を据え、山田は正面勝負の構えだった。
「日欧の楽団に技術格差を感じたことはない。違いは表現におけるしゃれっ気、色合いの部分。スイス・ロマンドは日本みたいに全部ちゃんと弾こうとせず、あいまいで紗(しゃ)にかかった雰囲気を醸し出すのが実に巧みだ」。確かに個々の奏者の物理的技巧水準は日本のトップクラスの楽団より劣るかもしれないが、山田の求める音のニュアンスをよくくみ取り、良い意味の「若気の至り」で大胆な表現に挑む瞬間の反応への抜かりなさでは上手だった。「まだまだ先がある」と、山田や樫本の今後に大きな期待を抱かせた。
山田は東京芸術大学在学中に横浜シンフォニエッタの前身(トマト・フィル)を組織、22歳でベートーベンの交響曲全曲を指揮するなど早くから実践を積んだ。卒業後はなかなかブレイクせず、下積みが続く。各地のアマチュア・オーケストラや合唱団をこつこつ振りながら飛躍の機会をうかがい、30歳で仏ブザンソン国際指揮者コンクールに優勝した。
これに対し5歳年少の川瀬は東京音楽大学作曲指揮専攻在学中の2006年、22歳で東京国際音楽コンクール〈指揮〉で1位なしの2位(最高位)を得た。すぐに全国各地のプロオーケストラから招かれ、広島では細川俊夫作曲「班女」を指揮してオペラデビューも果たした。現在は名古屋フィルハーモニー交響楽団で「指揮者」のポストにあるほか、今年4月には神奈川フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者へ就き、いよいよ「マイ・オーケストラ」を手に入れた。神奈川フィルは3億円超の債務超過を解消して存続の危機を乗り切り、今年3月に念願の公益財団法人化にこぎ着けた。若い指揮者に、楽団再生を託した。