コンペ部門だけではわからないカンヌ映画祭の魅力
カンヌ映画祭リポート2014(1)
たかがカンヌ。そう思うことが時々ある。今年も国際映画祭(5月14~25日)が開かれる仏カンヌの地を訪れている。
増える世界の映画製作本数
世界の映画製作本数はグローバル化とデジタル化の進展に伴い、今世紀に入って確実に増勢にある。インド、中国、韓国、東南アジア諸国など経済成長著しいアジアではうなぎ登り。ヨーロッパ各国でも着実に増えている。
わが国も例外ではない。昨年の日本映画封切り本数は前年比6.7%増の591本。映画黄金期の1960年の547本を大きく上回る。新興国で娯楽映画が量産されているだけでなく、映画という表現手段がよりコンパクトで身近なものに変質しているのだ。
カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に選ばれるのは毎年20本前後。67回目の今年は18本ととりわけ少ない。世界の圧倒的多数の監督たちはカンヌとは縁のないところで映画を作り続けている。それが現実だ。
製作本数が膨らむのに伴い、新人監督の数も確実に増えている。それなのにカンヌのコンペの顔ぶれは新味が薄い。常連の名がずらりと並ぶ。その傾向はここ数年はますます強まっている。「アートシネマは死んだ」とうそぶく口の悪い興行関係者もいるというのに。
常連が目立つカンヌ、コンペ18本中16本が出品経験者の作品
今年のコンペ18作品のうち、ある視点部門や監督週間を含むカンヌ出品歴がある監督の作品は16本。コンペ出品歴がある監督の作品は12本と3分の2を占める。うち11本の監督には受賞歴がある。ダルデンヌ兄弟、マイク・リー、ケン・ローチは最高賞パルムドールを受けている。
ベルトラン・ボネロ、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン、デヴィッド・クローネンバーグ、ミシェル・アザナヴィシウス、河瀬直美、ダルデンヌ兄弟、リー、ローチの8者は、この5年の間に2度目のコンペである。ディレクターのティエリー・フレモーは4月のセレクション発表の記者会見で「常連と新人の巧みな混ぜ合わせ」と説明したが、果たしてどうだろう?
国籍別にみると、クローネンバーグ、アトム・エゴヤン、グザヴィエ・ドランとカナダから3人入ったのが目立つ。米国は2人。フランスは例年並みの3人だが、スイス国籍のジャン=リュック・ゴダール、ダルデンヌ兄弟、ドランの作品もフランス語映画だ。アフリカ1、南米1。アジアは寂しく日本1、トルコ1。中国と韓国は昨年に続いてゼロだった。
女性は日本の河瀬直美とイタリアの若手アリーチェ・ロルバケルの2人だけ。アジア人も女性も少ないということは河瀬の受賞に追い風になるかもしれない。ちなみに審査委員長は女性で唯一のパルムドール受賞監督、ニュージーランドのジェーン・カンピオンだ。
世界中から買い付け 新しい映画、未知の作品に出合う場
フレモーによるコンペのセレクションが果たして現代の世界映画の地図を示しているかどうかは議論が分かれよう。にもかかわらず、東京から飛行機を乗り継いで、コートダジュールの海岸を走り、カンヌの街が近づくにつれて、毎年のことながら、わくわくするのはなぜだろう。
パルムドールの行方ばかりが注目されがちだが、カンヌ映画祭はコンペ部門だけではない。クラシック部門や短編部門もあるし、独自開催の監督週間や批評家週間もある。何より巨大なマーケットが併設されている。
世界中から配給会社が買い付けに来る。製作会社やセールス会社が売りに来る。これから作る映画の企画を抱えたプロデューサーや監督が、パートナーを探しに来る。新しい映画、未知の映画に出合おうとする様々な人の姿が、カンヌが近づくにつれて増えていく。ここは映画人を引き寄せる磁場なのだ。
そこにはおのずと世界の映画状況の縮図が現れる。コンペでは影の薄いアジア映画も、マーケットでは大いに活況であることがわかる。どの部門に選ばれた作品も、映画表現の新たな地平に挑むという点では、刮目(かつもく)に値する。
未知の映画との出合いは、旅の興奮と似ている。たかがカンヌ、されどカンヌなのだ。
(カンヌ=編集委員 古賀重樹)
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