2013/7/2

ダイレクトメッセージ

また、広岡さんは投手が打者を怖がって制球を乱すことを何よりも嫌っていました。ある試合で私が四球を出したとき、マウンドまで来て「ストライクが入らん者は、野球をやめちまえ」とそれだけを言ってベンチに帰って行ったことがありました。

逃げるな。打たれてもいいから立ち向かえ。そう言われた気がした私は後続打者を抑え、その試合を完投勝利で飾ることができました。「やればできるだろう」。ベンチに戻ると、そうねぎらってもらえたことを覚えています。突き放したようでいて、選手の潜在能力をしっかり引き出す。残した結果は褒める。私が長く現役生活を続けることができたのは、広岡さんの指導があればこそだったと思います。

長く選手生活を続けられたのも、真のリーダーといえる恩師に出会えたおかげ

同じ西武で管理部長をされた根本陸夫さんも、私にとってのかけがえのない「師」でした。名古屋電気高(現愛工大名電高)3年だった私は、父から社会人野球の熊谷組に進むよう言われていたのですが、根本さんはドラフトの6位で私をあえて指名。プロ入りを渋っていた父には「あなたの息子さんを、自分の息子だと思って育てます。私にあずけてください」と言ってくれたそうです。

西武の場合、新人選手は「若獅子寮」に入寮することが決まりです。当然、門限があるのですが、根本さんは「若いんだから、こんな所に閉じこもっていないで思いきり遊んでこい」とよくけしかけていました。それでいて、私たち若手がどこで飲み、どれだけ羽目を外していたのかの情報は、しっかりと仕入れていました。その情報網の恐ろしさといったら……。

根本さんは私を含め、若手を自宅に呼んでよく食事を振る舞ってくれました。食卓に出されていたのは何と牛乳で煮込む特製のすき焼き。「これが体にいいらしい」と根本さんは言うのです。みんなは「う、うまいです」と食べていたのですが、私だけは遠慮もせずに「これはおいしくないですよ」。振り返れば冷や汗ものですが、次に呼ばれたときから、私のメニューだけが普通のステーキになっていました。

95年に西武からダイエー(現ソフトバンク)にフリーエージェントで移籍したときも、その2年前にダイエーのフロントに転じていた根本さんからお声がけをいただきました。当時のダイエーはパ・リーグの中でも弱かった。エラーをした選手がへらへら笑ってベンチに引き揚げてくるような始末ですから、常に最下位を争うのも当然だったでしょうか。

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