熊野筆は「共犯者」書家 柿沼康二

2013/5/28

ダイレクトメッセージ

「筆は書家にとっての刀」「書家の人生は筆探しの旅でもある」と、よく口にする。

私の筆へのこだわりは「フェチ」(フェティシズム=呪物崇拝の略称)どころか、全く病的である。今日よりさらに良い線、血のほとばしるような線を書きたい。欲求は永遠にやむことがない。腕前に磨きをかけることは当然だが、侍の真剣勝負で切れない刀が命取りになるがごとく、書家にとっては筆が、表現を大きく左右する。紙という対象物に向かい、己の意志や美観を切りつける、あるいは表出する、具現化する上で、最も重要な武器なのだ。書の表現における伴侶、共犯者ともいえる。

筆へのあくなきこだわりが生んだ、柿沼オリジナル

もっともっと、うるさい書家になりたい(2007年ころ、米国で)

師いわく、「腕(うで)じゃなく筆(ふで)じゃ」「筆じゃなく腕じゃ」。自分の駄作について筆と腕、技術と用具の関係を禅問答のように稽古をつけていただいた。良い筆を選んで手に入れる、ないしは良い筆を作らせることも、作家の腕である。腕を殺すも生かすも筆。筆によって技術が高められる半面、ダメな用具は腕を鈍らせもする。

筆といえば、広島県熊野町の熊野筆。昨今では化粧筆がハリウッドスター御用達、女子サッカーの「なでしこジャパン」チームへの国民栄誉賞記念品などで一躍有名となり、日本の匠(たくみ)を象徴する「時のツール」に躍り出たのが記憶に新しい。だが元来は、書道筆の日本随一の生産地である。書道、絵画、化粧などの筆の分野で、約80%の国内シェア(市場占有率)を誇っている。

江戸時代の農閑期、農民や行商人が紀州(現在の和歌山県)や熊野地方、大和の国(現在の奈良県)へ出稼ぎに行って筆や墨を仕入れ、商ううち、自ら技術を習得した。本格的に製造と販売を始めて以降、広島藩からも産業奨励の後押しをされ、現在に至ったとされる。

私が使う特注の筆は、紛れもなく熊野の職人の手によるものだ。

昨秋放映されたNHKのテレビ番組「趣味DO楽 柿沼康二 オレ流 書の冒険」で、「文具四宝」の中の筆を取り上げた回があった。創業100年の筆の老舗本舗「久保田号」の工房を訪ね、筆を作っている工程、ここで作られた様々な筆を見学させていただいた。毛が長く、最も使うことが難しいとされる羊毛の長鋒(ちょうほう)を愛用していた「昭和の三筆」の手島右卿先生、そして、もう一人の師である上松一條先生も、久保田号製の筆を好んで使った。久保田号さんからは手島先生がたびたび熊野を訪れ、職人と切磋琢磨(せっさたくま)して特注の筆を開発したと聞いた。

両師の好みに追随したつもりはない。筆に対するわがままから様々の筆屋に行き来し、最終的に師と同じ久保田号の職人の腕の中に納まり、今に至ったのである。

柿沼康二オリジナルの熊野筆「不死鳥」の穂先部分

私の特注筆は20代半ばから10年以上、未完成のままだった。へりくつとも無理難題ともいえる、私の飽くなきこだわり(わがまま)は最終的に久保田号の職人に託された。見事に具現化された「柿沼オリジナル筆」は、それから3年の歳月を経て完成した。

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