2013/5/23

クローズアップ

灰田が多崎の部屋に残した「巡礼の年」の音源はLP時代の1977年、ロシアのラザール・ベルマン(1930―2005年)がドイツ・グラモフォン(DG=現ユニバーサルミュージック)に録音した3枚組の全曲盤だ。旧ソ連の先輩ピアニスト、エミール・ギレリス(1916―85年)が「私とリヒテルの2人で弾いてもかなわない」とたたえ、指揮界の帝王ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908―89年)がリストの「超絶技巧練習曲集」の録音を激賞した結果、ベルマンは当時の「西側」で急激に知名度を上げた。

破格のスケールのソナタ

実際、ベルマンはリストの時代から聴衆に潜むビルトーゾ(名手)礼賛の欲求を満たす技の持ち主だったが、DG契約後にカラヤン指揮ベルリン・フィルと録音したチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」などを虚心に聴けば、真価は、やや古風なロマンチストならではの温かく、たっぷりした音色や語りくちに存在した。村上もまた、灰田に「繊細な心象風景を描くみたいにリストを弾きます」(63ページ)と語らせ、ベルマンの本質を的確に言い当てている。国内盤は長く廃盤だったが、ユニバーサルは今回の話題沸騰を受け、小説発売から1カ月後の5月15日、CDの規格(UCCG-4818/20)で急きょ再発売した。

ブレンデルの「巡礼の年」第2年《イタリア》

「ル・マル・・デュ・ペイ」の演奏者としてはもう1人、今は引退しているオーストリアの世界的ピアニスト、アルフレッド・ブレンデル(1931年生まれ)の名前が306ページで挙がる。多崎がシロの死の真相に迫ろうと、わざわざ休暇をとり、フィンランド人の妻となった同じグループの旧友クロをヘルシンキ近郊の別荘まで追いかけ、話が本題にさしかかる場面でブレンデルのCDがかかる。多崎が「リストの音楽というよりはどことなく、べートーヴェンのピアノ・ソナタみたいな格調があるな」と漏らすと、クロは「あまり耽美的とは言えないかもしれない。でも私は気に入っている」と応じる。確かにベルマンの醸し出すロマンの神秘は後退する代わり、楽曲それぞれの構造がくっきりと浮かび上がる。

感極まり、抱擁する2人はブレンデルの演奏を「巡礼の年」第1年《スイス》だけでなく、1858年に出版された第2年《イタリア》の全7曲中、第5曲の「ペトラルカのソネット第104番」まで聴く(309ページ)。1986年、現在はユニバーサル傘下の「デッカ」レーベルに吸収された旧フィリップスが制作したブレンデル盤(第1年《スイス》がPHCP-3820、第2年《イタリア》が同3819)は「名盤」とされてきた。日本のユニバーサルも廃盤にはしなかったが、「長く品切れ状態だったので、ベルマン盤の再発売と同時に追加プレスをかけ、入手可能にした」という。同社ではベルマン、ブレンデルそれぞれの抜粋に関連音源を組み合わせたコンピレーション盤(UCCS-3062)も、同時に発売した。

コンピレーション盤「小説に出てくるクラシック」

フィンランドから帰国した多崎は現在のガールフレンド、沙羅に深夜の電話を試みた後でピアノの前に座り、ソナタを弾く「長い奇妙な夢」を見た(340ページ)。村上は曲名を伏せているが、「長大な曲」「楽譜は電話帳のように分厚い」「音符で埋め尽くされ」「複雑な構造を持ち、高度なテクニックを要求する難曲だ」などの状況証拠と、リストの作品を通奏低音に置いた小説のドラマツルギーの両面から、候補は「ピアノ・ソナタ ロ短調」に絞られる。単一楽章ながら起伏に富み、演奏時間30分に達するリスト最大のピアノ独奏曲。「人はまさしく、神の目に映るその人以上のものではない」との言葉をリストは好んだが、破格のスケールのソナタはまさしく、彼が生きた時代に記した足跡の大きさの証しである。ユニバーサルのコンピレーション盤にはブレンデルの演奏の一部が収められているが、小説の中で曲名が明かされない以上、別の演奏家の録音で聴くのも一興だ。

アラウの「ピアノ・ソナタ ロ短調」の1970年録音を採用したSACD

灰田が「現存のピアニストでリストを正しく美しく弾ける人はそれほど多くいません」と断言した上で、多崎に「僕の個人的意見」でベルマンとともに勧めるクラウディオ・アラウ(1903―91年)の名演はどうだろう? 南米チリの生まれだが、神童の未来を確信した政府の派遣で8歳の時に家族ともどもドイツの首都ベルリンへ移住。リストの高弟マルティン・クラウゼ(1853―1918年)に師事した。

べートーベン、シューマン、ブラームスなどドイツ音楽の巨匠として大成する一方、直系ならではのリスト解釈でも他の追随を許さなかった。70代半ばのアラウが横浜の神奈川県立音楽堂でリストのソナタを弾いた時、客席には当時の日本を代表するピアニストがずらりと顔をそろえた。録音は1970年、81年の2度、旧フィリップスで行ったが、まだ壮年の充実期にあった旧盤の評価は、とりわけ高い。もしSACD(スーパーオーディオCD)の再生装置を備えているのであれば、ユニバーサルが最新のリマスタリングを施した70年録音のSACD専用盤(UCGD-9002)が、アラウの深く美しいタッチ、果てしないスケール感を最大限克明に伝えてくれる。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

著者:村上 春樹
出版:文藝春秋
価格:1,785円(税込み)


リスト:巡礼の年(全曲)

演奏者:
販売元:ユニバーサルクラシック


リスト/巡礼の年:第1年「スイス」

演奏者:ブレンデル(アルフレッド)
販売元:ユニバーサルクラシック


リスト/巡礼の年:第2年「イタリア」

演奏者:ブレンデル(アルフレッド)
販売元:ユニバーサルクラシック


巡礼の年~小説に出てくるクラシック

演奏者:
販売元:ユニバーサルクラシック


リスト:ピアノ作品集

演奏者:
販売元:ユニバーサルクラシック


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