「日本経済新聞」の屋号書家 柿沼康二

屋号を手がける場合、可読性や一般性のみならず、同時に「可読スピード」も不可欠な要素となる。前回のコラムでフォント(書体データ)の原文に対する無脚色性、あるいは低脚色性を指摘した。フォントは筆文字に比べ、可読スピードがずば抜けて速い。

可読スピードのアート

「読みやすい」というのは個々の文字を視覚し、脳が認識するまでの時間である可読スピードが速いということだ。フォントが読みやすいのは、人が手を当てて一回性の中で文字を書く行為(手当て)の中で生じる抽象化を持ち得ないから。筆とフォントの決定的な違いこそ、「手当て」なのである。手を媒介せずして、書は成立しない。

まず読めること、しかも、できるだけ速く。

柿沼康二筆の屋号、「九州大学」

それだけなら、単なるフォントでいいのではないか。または、近所の字が上手な人にちょこちょこっと、書いてもらえばいいのではないか。

いや違う。フォントには味がないし、適当な筆文字の屋号なら、腕に覚えのある社長に書いてもらった方がまだ、説得力がある。で、フォントは却下。社長も経営に専念した方がいい。「じゃあ、誰に仕立ててもらおうか」とくるのが、心ある企業が屋号に求める、まっとうな心意気だろう。

屋号って会社の顔だよ。ダルマの目だよ。不細工な顔はごめんだよ、かっこ悪い。いくら事業内容が優れていても、屋号がいまいちでは、いいものも良く思われない……とくる。

上田桑鳩筆の縦題字

読める。速く。しかも手がけた作家の世界観が表現されているかどうか。書は、単なる文字に物語や生命力を吹き込んでなんぼの芸である。屋号のみならず家の表札、子どもの命名書、テレビ番組の題字しかり。文字による表現は、実に難しい。クライアントのニーズに応えつつも、仕立てる作家の世界観がこめられ、ターゲットのど真ん中を射るに越したことはない。

上田が日経の屋号を手がけるに至った経緯を想像するのも、興味深い。昭和を代表する書家だから、ただ文字をきれいに正しく美しく書き対価を得る筆耕ではない。それでも自分勝手に表現したいものを描くアートワークではなく、ある目的の下に依頼されて物を生み出し、発注企業が納得して初めて成立するクライアントワークであったと推測する。

「先生にすべて、お任せします」。何を納品しても一発OKだったら、芸術家冥利に尽きる「お仕事」だったろう。しかし、私はそう思わない。

読みやすく、上手に、きちっと書くだけなら目をつぶり、左手に筆を持ったとしても可能だったろう。だが日本を代表する新聞社の屋号、堅実性や権威、イメージなどに最もふさわしい表現を究めるには、クライアントとクリエーター、ターゲット(目的・目標)のチームワークが欠かせないし、結果を大きく左右する。

注目記事
次のページ
正倉院御物「楽毅論」にルーツ
今こそ始める学び特集