2013/3/20

最後にベーコン自身が、創作のプロセスを語った言葉を紹介しよう。

「制作中に絶望的な状態になると、ありきたりの写実的な絵にならないよう、絵の具を使ってほとんどありとあらゆることをやるのです。つまり、ぼろきれやブラシでカンヴァス全体をこすったり、何でもかんでも使ってゴシゴシやったり、テレビン油や絵の具などを投げつけたりして、理性に基づいて描いた明瞭なフォルムを破壊しようとします。そうしていくうちに、フォルムがいわば自ら変化していって、私が作った形ではなく、自分自身の形におさまるのです。そうすると、自分が何を欲しているのかがわかってきて、カンヴァス上の偶然の産物に手を加えられるようになります。たぶんこうした過程を経て、自分の意図だけに基づいて描いた場合より有機的な絵ができるのです」(デイヴィッド・シルヴェスター著「肉への慈悲」小林等訳)

絵画の専門教育を受けたことがないベーコンは自分だけの絵に到達するために苦しみ抜いた。それは「写実主義的でありながら、そこから逸脱している絵」であり、「具象的に描いたもので神経をより強烈に刺激しようという試み」(同)だったのである。

ベーコンのインタビューを録画した映像を見ると、そのチャーミングな風貌に引き付けられる。親しみやすい丸顔にピンク色に輝く血色のいい肌、くるくると回る目。皮肉家で巧みな話術で人を魅了したともされるが、いったいベーコンとはどんな人物だったのだろう。

ベーコンが生まれたのはアイルランドの首都ダブリン。イエーツやベケット、ジョイスら世界的な文学者を育んだ「文学の町」である。ぜんそくの持病がある少年は、元軍人で競走馬を愛する父親とそりが合わず、同性愛にめざめ、母親の下着を身につけているところを見つかって家を追われた。アイルランドの文学には生涯親しんだが、母国に対しては屈折した思いを持ち続けたに違いない。

拠点としたロンドンで、ベーコンは何度も引っ越しを重ねたが、その跡を地図を片手にたどってみると興味深いことが分かる。その大半がサウスケンジントン地区とその周辺に散らばっているのだ。

地下鉄のサウスケンジントン駅を出てすぐの所に、画家自身がとても気に入り、手放したことを後々後悔したと話した「クロムウェル・プレイス7番地」のアトリエがある。現在はナショナル・アート・コレクション基金が入っている白亜の瀟洒(しょうしゃ)な建物。入り口のサインにはベーコンのほかにラファエル前派の画家ジョン・E・ミレイら幾人かのアーティストが暮らしたことが記されている。ベーコンがこのアトリエを突然に手放したのは51年。母親代わりに面倒を見てくれた乳母のジェシー・ライトフットが80歳で亡くなったためだ。その悲しみに耐えられなくなった彼は描きかけのカンバスも置きっぱなしにし、残っていた賃貸契約をただ同然で手放して、慌ただしく出て行った。

その後いくつかの部屋を転々とするが、思い出深い土地を離れることができず、クロムウェル・プレイス7番地からわずか数分の距離にある「リース・ミューズ7番地」に行き着いた。61年から亡くなる92年までを過ごした最後のアトリエである。この一件からも、ベーコンが親しい人々には惜しみない愛情を注いだ人物だったことが分かる。親しい女友達の死を悼んで絵を描いたり、入院費用などを肩代わりしてやったりしたこともある。一方で、彼に作品を見てもらおうと行きつけのバーに現れた若い画家に対しては、「そんなもの見るまでもないね」と突き放している。ネクタイの趣味の悪さを皮肉った痛烈な一言とともに。

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