日本語の難しさに、悩まされることが多い。
モンスター級の特殊言語
私たち日本人は話す、読む、書く(この場合は書道ではなく日常のメモや筆記のこと)、文筆など様々の場面で日本語という言語を介し、日々のコミュニケーションをとる。約5万種類ともいわれる漢字はもともと中国から伝わり、それぞれに形、音、義(意味)を備えた表意文字だ。中国文明の長い歴史の中で一度も断絶されることなく使われ続けたという点で、世界的にもまれな言語である。
日本は1500年以上前から、膨大かつ意味深長な中国漢字を輸入してきた。独自の新しい音を与えたり、意味合いを変えたりする一方、草書を簡略化した平仮名、楷書やその一部を借りた片仮名などの表音文字、中国にはない和製漢字……。日本独自の言語を次々にクリエートし、中国漢字の受容を日本独自の言語へと変容させていった。
主に漢字、平仮名、片仮名を巧みに、そして幾重にも組み合わせ、日本語は構成されている。組み合わせ方は人それぞれ千差万別だから無限、さらに敬語とか謙譲語とかが入ってくる。もうお手上げである。文法もまた独特で、主語→述語とくる英語や中国語とは語順が逆さだったり、主語が見当たらなかったりする場合が普通にある。片仮名表記にした外国語、外来語のローマ字が紙面をほぼ埋め尽くす例も、よく見かける。さらに細かく言うなら、漢字や平仮名、片仮名の一つ一つに確固とした筆順、崩し方の正誤まで備わっているのだから、私としてはもう複雑怪奇どころか、モンスター級の特殊言語だ。
公園での講演は好演だった。
コウエンでのコウエンはコウエンだった。
音声だけでは、何を言っているのやら?
さて書家はその日本語をどう、操っているのか。
書家はおおむね日本語を素材にしているが、時にアルファベットを素材にするケースも最近は増えている。近現代の文学者、作家の名文など私たち日本人がふだん使う漢字仮名交じり文=現代文体ともなると漢字、平仮名、片仮名のほかにアルファベットが交ざり、書家はおのずとそのまま、書かなくてはならない。
一般の書道展でひときわ目につくのが、縦にすこぶる長い「長条幅」に杜甫とか李白の漢詩を書いた漢詩作品だ。もちろん日本語ではなく、中国語である。書いている本人が、そこに書かれている中国語を本当に理解しているかと問われれば、一部の中国語に堪能な先生を除き、答えは「NO」となる。解釈文や翻訳に感化され作品にする人、文章の内容はさておき書きやすい、崩しやすい、まとめやすいといった理由だけでその漢詩を選び、作品にする人など、実態はさまざまである。
書いてある言葉や文章、つまり文字素材の真意と書き手の心境の間のギャップは、漢詩作品だけにとどまらない。「心」「努力」「喜怒哀楽」など字数の少ない書、「和して同ぜず、同して和せず」など漢字仮名交じりの現代文体もしかり。必ずしも、書く素材そのものの意味だけを書いているわけではない。
杜甫や李白の漢詩、啄木や茂吉の詩など有名文学者の詩文は書として作品化される機会が多い。素晴らしい文学だからである。素晴らしさゆえに歴史からふるい落とされず現在まで遺され、それらを素材に自分を表現したくなる人が次々と現れるのは当然だろう。
しかし創造主である作者以外が筆というツールを使い、書される瞬間から、原文の意味は作者の意図から少しずつ、少しずつ離れていく事実に気付く。書家が李白の詩に筆を載せた時点で、詩の意味は李白の本心から遊離すると言っても過言ではない。詩と書家の表現力が相まって、李白以上の芸術的価値を持つ可能性すら秘めている。