◎今度は自宅からプレハブへ移り、制作を始める際のおきて。
→人と会ってはいけない=コンビニとかで知人に出くわしてしまうと、その日の制作は台無しになる
→誰とも口をきいてはならない=携帯電話もオフ
→腹を満たしてはならない=カップ麺やバナナ、「カロリーメイト」など非常食のみ
→布団に寝てはならない=座布団と1枚の毛布で何日も過ごす
→臨書をしてはならない=歴史上の能筆家、過去の先達と全面対決
→良い作品ができるまで、絶対に家へ帰ってはならない。途中で抜け出してはならない=忘れ物は命取り。準備がすべてである
→泣き言をいってはならない=すべては日ごろの自分の甘さ、準備不足に起因する
→寝ようとしてはならない=限界の限界まで書く。限界寸前に、よいものができる
まるでバイオレンス、私の書世界
さあ!
書き始めたらもう、何があろうと止まらない、止まらない。気づいたら10時間以上、何百枚も中腰のまま書き続けている。「何かに取りつかれているのではないか」と、不安にもなる。制作後、私の体を診る主治医は「どうやれば、人間の体はこんなにぼろぼろになれるのか」と、驚くばかりである。少なくとも、立ったり座ったり、スクワットのような動きを一晩に何百回もやっているのは確かだ。
何時間書いたとか、何枚書いたとか、人に認められたいとか、そんなことが目的ではない。「良い作品を創りたい」。その一心である。良い作品のためなら、何でもやる。完全に精神が肉体の限界を超え、「もう明日なんか無くても、この一瞬をモノにできたら死んでもいい」「世捨て人、最高!」「人でなしで上等」あたりまで突っ走らないと、アートの神様は、こっちを向いてはくださらない。
アートは安定を嫌い、不安定と仲良しだ。時計をわざとずらす。邪魔は徹底的にやっつける。自分に怒り続ける。コーラ、ブラックコーヒー、時にアルコールと、液体をガブガブ体に流し込み、たばこをプカプカ。これが20歳からずうっと続けてきた私の制作儀式、スタイルである。
年齢も年齢なので、こたえるにはこたえる。だが自分の体から出さざるを得ない何か、吐かざるを得ない何かを表現するのがアートなのだから、仕方ない。
書においても、目に見える形や技術で優劣を決めるなら、習字か字書きにとどまる。文字を素材にしつつも、書を形作っていく上での造形感と動態の前後、上下、左右に自分独自の感覚や哲学、思いを織り込んでいくのがアートである。最終的には、どのような文字をかいているかすら忘れ、文字と筆、心が一体になる。
一枚、また一枚、そして何十枚、気がつけば何百枚、何千枚と気の遠くなるような時をかけ、本当の自分自身と出会えるまで、筆を止めることはできない。今この一瞬を生きた証しが目の前に現れるまで……。書は一般的に、静かな世界のように理解されるが、私はまったくそう思わない。
少なくとも私の書世界は、まるでバイオレンスである。やるかやられるか、筆と紙の間で、つねにバトルが繰り広げられている。作家が持つ形而上の理念をいかに形而下の平面に落とし込むか。その闘いはとてつもなく激しく、熱い。
自分の分身といえる作品を創りだすため、私は今も、気絶するまで書き続けている。
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