書の一回性については、習字の時間を思い出してほしい。先生から口やかましく、二度書きや、なで書きを注意されたと思う。絵画の世界では制作中にお茶を飲んでも、一晩あるいは半年寝かして書き加えても「ノープロブレム」だが、書においては基本的かつ重大なルール違反である。邪魔が入ったとたん、漢字や文字を構成する点画どうしの「気脈」が大きく崩れ、連動が断たれ、不自然きわまりなく粗末な文字表現となる。
書の立体感
絵画を書や音楽と比較した場合、絵画には時間の制約がないとは言わないまでも、少ない。永遠に継ぎ足し、書き足しができるので「どこでやめるか、いつ終わりにするか」を問われる。音楽は基本、一つの楽曲が終われば終わり。書は文字、文章を書き終えたら終わり。音楽も書も、あらかじめ始まりと終わりがあるモチーフを何回繰り返すかで、作品全体の質が左右される。ライブともなれば、その瞬間でベストを出さなければならない。
書における絵画性で、私が最も大切にしているのは「立体感」である。
書も絵画も一見、「2D」(2次元・平面)と思われがちである。しかしミクロの視点ではカンバスや画仙紙(書の紙)、定着したインクや墨の表面も凸凹まだらで、厳密には平面といえない。この世に平面や直線は、ないのだ。
一見2D的な表現をいかに「3D」(3次元・立体)に見せられるかが作品の価値、作家の力量を物語る。書や絵画の「空間芸術」たるゆえんは、ここにある。立体感。それは作品から鑑賞者に放熱され、訴えかけてくる多様なエネルギーの形ともいえよう。エネルギーが「お肌」に合うか合わないかが、見る側にとって、作品への好みとなる。
立体感においても、書家の核である「臨書」に対する姿勢が問われる。臨書で文字の3D感覚をとらえるべく古典に迫らない限り、立体感は都合よく出現してはくれない。
「書における立体」
この感覚をつかんだ瞬間、長い間悶々としてきた気持ちがいっぺんに、晴れやかとなった。
書という芸術は、音楽における時間性と絵画における空間性を兼ね備え、さらに文字や言葉などの文学性をモチーフとする「総合芸術」であると、多少なりとも伝えることができたのであれば、うれしい。
あるテレビ番組の海外ロケ中、米国シカゴでギャラリーのオーナーが唐突に切り出した。
「絵画は時間がかかるから高価だが、書はあっという間にできるから安い」
私は「ばかやろう」と言いたい気持ちを抑え、逆にほほ笑みながら冷静に、こう返した。
「今まで生きてきた時間(当時32歳)プラス数分だとしたら、どう?」
書に潜む時間の感覚を納得させるには、まだまだ時間がかかる。
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