ジャンル破壊。これまでの人生、懲りずに繰り返してきたように思う。物心ついたころから枠にはまるのも、枠にはめられるのも、嫌いだった。
「一回性の芸術」を共有
ジャンルはあくまで、便宜上や分類上のくくりであるはずだが、この国では人や事象、さらには芸術までも、やたらジャンルの枠にはめたがる。どこかの分類にすっぽり収まるアートなんて、いったいぜんたい古今東西、存在したのかどうか。はなはだ疑問である。
音楽は聴覚芸術といわれる。書に音を「聴く」ことはできない。だが書には、音楽のような時間の感覚、制約が色濃く求められる。一回性の芸術、という点で音楽と書は共通する。
いちど書き始まったら、最後まで書き続けなければならない。やり直しも、補筆(なで書き)もダメ。携帯電話がうっかり鳴ってしまっただけで、手がけている作品はたいがい没になる。電源オフにしておかなかったことを悔やむことも、少なくない。書いている途中はお茶、トイレも基本NG。音楽家が楽曲を奏でるがごとく、始まったら最後まで続けない限り、作品という一つの形に実らない。
もちろん単に演奏する、書き通すだけで芸術になるなら、誰も苦労はしない。
二度と訪れてはくれない「その時」、瞬間瞬間で自分の生きてきた証(あかし)をうそ偽りなく、真っすぐに焼き付けるのが真の作家の姿である。そこに、作家の個性がにじみ出る。
一回性に介入する一切の雑音、邪念、迷いは大敵となる。
音楽と書の大きな相違点は、録音を別とすれば、奏でられた音が実体としては見えないこと、残らないことだ。書では、墨跡が紙面に残る。書が視覚芸術、空間芸術といわれるゆえんだが、音楽に通じる一回性の側から書を見ていくと、別のさまざまな発見がある。
書のうちに潜む音楽性において、私が最も大切にしているのは「貫通力」である。
貫通力とは、終始一貫、迷いがなく気持ち(気脈)が通っているかどうかを指す。
「自然」「自由自在」というマジックワードを用い、書を明確に説明できた経験は、これまで全くない。書における音楽性、そして、自然とは何かをうまく言い当てられず、長い時を過ごしてきた。
長い模索の末、貫通力というキーワードに至った。音符や文字の点画や骨組みを巧みに組み合わせ、骨組み同士の間に存在する白い空間を解釈し、間やリズムを生み出す。さらに起承転結、序破急といった全体感を物語る。生命感たっぷりに、何の矛盾もなく、一つの作品を終始貫通させられるか否か。その力が作家の力量、センス、魅力を左右する。