「模倣」と「創造」の垣根はない書家 柿沼康二

2012/12/25

ダイレクトメッセージ

何ごともコピー、模倣から始まる。

人が話す、歩く、音楽を奏でる、踊る、学ぶ(真似ぶ)、仕事をする。すべてまず何かを真似て、様々の行為ができるようになる。吸ったからこそ、吐ける。書では「臨書と創作」の関係性に当たる。

臨書は単なる模倣か?

臨書で色々な栄養を吸収できていればこそ、自分が表現する文字には歴史観や規範性、美的価値が備わる。しかし、芸術の真の価値は過去の模倣や技術的なこと、知識などにあるわけではない。

書の古典と向き合う。オーケストラ指揮者の読譜に一脈通じる

「今」という瞬間、「個性」、そして作品にこめられた作家のエネルギーあって「なんぼのもの」である。さらに未来、新しさ、メッセージ、仮説など次代への提唱を含んでいなければ、真のアートとは呼べない。

では古典の臨書で吸収した内容をどうしたら、自らの芸術的かつ個性的な書で表現できるのだろう。創作とは自分らしいオリジナルの作品を創造することだが、臨書とは、果たして単なる模倣なのか。

一見、没個性的とも思える臨書や模倣について、少し詳しく触れてみたい。

あるテレビ局のディレクターから、次のような質問を受けた。

「臨書という『写す行為』のうまいのが書家なのか」

「真似るのがうまいのは書家に必要な素質なのか」

知らない対象に向けて発した素朴な質問というよりは勉強不足、私の懐に飛び込んでくるつもりにしては、いささかデリカシーのない質問だったが……(苦笑)。

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