書を語る際、音楽、特にクラシック音楽に例えると、わかりやすい。

書家とマエストロ

ピアノ、バイオリン、何でもいい。まずドレミファに始まり、ひとつの楽曲が奏でられるようになっていく。奏でられるといっても人それぞれ、雲泥の差がある。学校の先生級の演奏か、マエストロ(巨匠)級の芸術品か。書で言えば、幼稚園児でも字は書けるが、それをアートかと問われれば、言葉に詰まる。

王羲之の字を臨書したとも、創作したともいえる柿沼作品「心」

世界的指揮者の小澤征爾さんがベートーベンやバッハの楽曲を指揮した演奏は、模倣だろうか。答えは「NO」である。もし「YES」なら、真似るのが上手な指揮者がマエストロになってしまう。マネシテロ、では誰一人お客様は集まりません!

また、模倣するにしても精神、肉体、道具、時代……と、すべて同一の人間が二人と存在しないのと同じく、オリジナルと完全にシンクロする模倣は永遠にありえない。

前回、臨書の究極は「書き手の心理を読み解く」と書いたが、実は、無理である。完全に読み解くことなど、できない。模倣には、オリジナルと自分との間で、永遠に埋め合わせることのできないギャップが常に、必ず存在し続ける。ギャップとは、他人と自分との絶対的な違いに他ならない。

ギャップを見つめたり、感じたりすることを通して初めて、自己や個性が芽生えてくる。矛盾のようだが、没個性的な模倣が真の個性を生み出すというのが、柿沼流の個性のとらえ方である。私の芸術観の大きなテーマ、「上品なアヴァンギャルド(前衛)」を言い換えれば「温故知新の芸術表現」となる。一心不乱、ひたすらに古典の模倣に精進して生じる自己とのギャップの中から、自己のオリジナリティーを紡ぎ出し、研ぎ上げていく。

優れた指揮者は音符や楽譜を基礎、骨組みにするものの、最終的には独自の解釈と哲学による自己表現を究め、オリジナルとは似て非なる「自分の作品」を演奏(創造)している。その作品は時に、オリジナルをも凌駕(りょうが)してしまう。書家も優秀であればあるほど、古典臨書を介し、そこに書かれた点画を基礎としながら、究極では自分を表現している。楽譜を書の古典、音符を文字の点画ととらえれば、書と音楽は一脈で通じる。

10年くらい前だろうか。修行としか感じられなかった古典臨書が突然、楽しくなった。そして書を、さらに面白く感じ始めた。

臨書と創作は表裏一体、と実感できるようになった。

吸うこと、吐くこと、いずれに偏っても呼吸は自然ではない。臨書は創造のふるさとであるがごとく、自分が吐き出した分だけ、古典からの栄養をとり込まずにはいられない。

「書家の醍醐味は臨書にある」

「昭和の三筆」と称された師、手島右卿(てしま・ゆうけい)の言葉が示す通りだ。

柿沼康二氏(かきぬま・こうじ) 書家。5歳より筆を持ち、父の柿沼翠流、手島右卿、上松一条らに師事する。東京学芸大学教育学部芸術科(書道)卒業。高校の書道教師を辞し26歳で渡米。ニューヨークで個展を成功させ、2006~07年にはプリンストン大学特別研究員としてニュージャージー州プリンストンに滞在した。「書はアートたるか、己はアーティストたるか」の命題に挑戦し続け、伝統書から特大筆によるパフォーマンスまで、多彩なパフォーマンスを展開する。NHK大河ドラマ「風林火山」や北野武監督の映画「アキレスと亀」など題字も手がける。現在は柿沼事務所代表取締役社長兼所属アーティスト。1970年7月16日、栃木県矢板市生まれ。
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