ここで書の線、いわゆる「書線」について触れてみたい。
「棒」と「線」、「線」と「書線」は似て非なるものである。
筆独特の運筆法、法則性が「書線」
例えば、楷書で「一」を書くとしよう。「一」はビジュアル的には1本の棒だが、書の場合、実際には「トン・スー・トン」の3つの仕事で書かれるのが基本だ。また、線が連続しながら方向転換する「転折(てんせつ)」というテクニック。「山」の字の左下角の部分や、「口」の字の右上角の部分もちょっと見には2画ながら、書では縦線と横線をつなぐ連結部分に斜めの線で1つ仕事をしてから方向を変えるため、厳密には3画がごとくに書いていく。運筆上、直線は速く進めるが、曲線や筆で方向転換をする際には車の運転のごとく減速しないと、自然かつスムーズに筆は進んでくれない。
書道の未経験者や外国人にはある種、矛盾と映るかもしれない。「何で?」と聞かれても「それはそうだから」「古典がそうなっているから」としか答えようがない。
筆は漢字文化圏に特有の筆記用具である。動物の毛でつくられた非常に柔らかいツールだ。ペンのような突起物ではないから、漢字や仮名を書く際に筆独特の運筆法や法則性が生みだされ、線が書かれてきた。これを「書線」という。鉛筆など硬筆で書かれた漢字、アルファベットや絵画における線と違い、書線は文字の点画すべてが連動連結した有機的かつ立体的な線でなくてはならない。
基礎の臨書の先には、さらに奥深い「意臨」という臨書の世界が待っている。気が遠くなるくらい時間をかけ何千回、何万回と無言の古筆に向き合う。古典の歴史的背景や様式、手癖、美意識、リズム、呼吸感など様々な要素を多角的かつ立体的に模索しながら、最終的には、書き手自身の心理や人物像に迫っていく。
1~3センチメートル程度の文字の細部まで意識して文字や点画に迫り、ちょっとした墨たまり、筆跡の微妙な掠(かす)れをはじめ、一切の変化を見逃してはならない。書き手の手癖、呼吸、様式、美意識など独自の指向や心理を読み解くべく、文字の中のミクロとマクロの世界を旅しつつ、一方では古典の全体像もつかまなければならない。第一級の臨書には異常なまでの集中(微視)、俯瞰(巨視)が同時に必要とされる。
臨書と書線。この2つの概念なしに、書という芸術は成立しない。徹底した古典臨書を通し培った書線で有機的に書かれた文字でない限り、書という芸術には値しない。
識字率の極めて高い日本では、上手下手を問わなければ誰にでも文字が書ける。筆と墨で書いた文字のすべてが「書」を名乗るなら、国民全員が書家となってしまう。だが真の書家は、型あってこその型破り。「ろくに臨書もせず、書家を名乗るべからず」と、声たからかに言いたい。
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