「文字を正しく整えて書く」の習字に対し、「漢字や文字を創意工夫して美的に表現する」といったあたりが「書」の一般的な定義になるだろう。これだけでは、それぞれの決定的差異がいまひとつ見えてこない。主に筆を使い紙に書く、文字を扱うという点では非常に似ているからである。
「柿沼流」の書をひもとく
「書」って一体、何なんだ!?
つまるところ、私の考え方や柿沼流の書を見立てていくしかない。時に独善的なことも柿沼流、ということでご了承いただけたらと思う。
「仕事は立体、作業は平面である」
自分の仕事がおもわしくない時、天から降りてきた言葉だ。仕事を立体的にとらえようと日々精進し続けないと、知らず知らずに仕事ではなく、単なる作業となってしまう。それは同時に、こんな言葉へシフトされた。
「書は立体、習字は平面である」
まず書において非常に大切な、「臨書」という仕事について知っていただきたい。臨書とは、歴史上に古典として残る名筆を模倣することだ。簡単に言うと、絵画におけるデッサンのようなものだが、単に模写や下書きのようにとらえられてしまうと、書の核たる部分を見逃してしまう。臨書は、呼吸でいうと「吸う」作業。吸わなければ何も吐き出せないのが自然である。
3500年とも言われる書の歴史。古典とは、中国では東晋時代に活躍した書聖・王羲之(オウギシ)や中唐の顔真卿(ガンシンケイ)、日本では平安の真言密教の開祖である弘法大師・空海を中心とする「三筆」「三蹟」ら能筆家が書き遺した手紙文や石碑に刻まれた名筆などを指す。
古典は何百年、ものによっては何千年もの時空にさらされ、「グレート!」と言われ続け、歴史のふるいからも落とされず、今日まで珍重されてきた。だからこそ今日なお、私たちはそれらを目にすることができる。
古典とは書における栄養の宝庫、書家にとってのバイブルと言えよう。
中には「美しい」という言葉だけに収まりきれない書き手の人間味あふれる喜び、悲しみ、また怒りなどの感情が赤裸々に表現された書も多数存在する。
古典とは、単に美しいものではなく、むしろ美を超越した個性、他者との決定的に違う筆勢や呼吸など、書き手独自のすごみを宿しているものといえる。書き遺した能筆家自身も、この上ない古典臨書の達人であったことを踏まえておきたい。
習字では先生から配られた一切遊びのないポキポキした楷書、少し崩した端正な行書がお手本とされる。これに対し書は、能筆家が書き遺した古典をお手本にして学ぶ。実は習字のお手本も、元は王羲之系の古典をベースにつくられている。
書では古典をテキストとして袂(たもと)に置き、筆と墨、紙、硯(すずり)の文房四宝を駆使し、日々マスターピース(傑作)を模倣する。まずは文字の形象性、書き順や文字の崩し方、筆使い(運筆や用筆)などの基本を学ぶ「形臨」である。形臨の中から徐々に文字を美的に書く上で大切な法則性、黄金律を見出していく。