「書」や「書道」から、皆さんは何を連想するのだろう?
白黒。墨と筆。習字。夏休みや正月の宿題。年末年始。朱色の添削。型はめ。手本を真似る作業。暗い。習字塾。お爺ちゃん、お婆ちゃん。先生。緊張。難しい。つまらない。古臭い。受賞とか落選とか。段や級。最近では書道ガールズやタレントに習字を教える怪しい書道家――。外部から拾った書に対するイメージ群は、およそ芸術とは言えないものばかりだ。
書写という国語の授業で異様に緊張しながら書いた?いや書かされた文字! 「誠意」とか「協力」はまだ良いが、時には意味もわからず「国民参政」など書かされていた。
習字が書を殺す
先生から配られた「お手本」通りに何度も何度も書き直したり、二度書きして先生に叱られたり……と。時間内に必死に仕上げた渾身の一作は、お手本と違う箇所があろうものなら、直ちに朱墨で駄目だし添削。お手本と似ているか似てないかの競争のような授業であった。本人にとっては、その日その時の自分の存在そのものとも言える表現に違いないのだが、「○」の一つももらえなければ罪悪感と敗北感が色濃く残り、心からの満足感を得た思い出はほとんどない。一部の書道愛好家を除けば、学校で書が嫌いになったり、書への関心が無くなったりと……。この世に生まれ20年も経たないうち、教育の中での「書」のイメージが後味の悪い形で定着したまま今に至っているのではないか、と私は思う。
誤解されては困るので、先ず断っておきたい。上に述べたのは「書」ではなく「習字」=「書写」のことである。「習字」とは「文字を正しく整えて書くこと」を主とする分野で、今回、私がダイレクトメッセージのコラムで語る「書」の世界とまったく関係ないとは言わないまでも、書のほんの一要素と思っていただきたい。
「書」と「習字」を混同することによって書という文化、芸がねじ曲げられてきたといっても過言ではない。「書」と「習字」の違いを知ることによって「書」にまとわり続ける誤解や負のイメージを払拭し、書の様々な魅力を紹介していきたい。