2011年12月13日付で、「全然は本来否定を伴うべき副詞である」という言語規範意識が国語史上の“迷信”であるという日本語研究を紹介しました。こうした実態に反する意識は戦前には見られず、昭和20年代後半に急速に広まったことが分かりましたが、その発生原因はまだ解明されていません。今回は辞書の記述からこの問題を探ってみました。
例えば、「広辞苑」第6版(2008年)には「全然」について、「俗な用法で、肯定的にも使う」とあるなど、現在市販されている国語辞典の多くは、「全然」は否定を伴うもので「全然+肯定表現」を誤用・俗用としています。こうした考え方は広く一般に浸透し、「全然いい」のような言い方に抵抗のある人は少なくないわけですが、実は辞書の記述としてはそう歴史は古くありません。
戦後、初めて辞書に
国立国語研究所で国語辞典編集準備室主幹などを務めた飛田良文・日本近代語研究会会長が、「全然」について明治から発行される代表的な国語辞典を調べたところ、昭和10年代までに出版されたものには「全然~ない」といった打ち消しとの呼応について触れているものはありませんでした。
打ち消しとの呼応は戦後発刊された辞書から見られるようになります。1952年(昭和27年)5月刊行の「辞海」(金田一京助編)が「全く。まるで。残らず。すべて。(下に必ず打消を伴なう)『―知らない』」として、初めて“必ず”という決まり事を示しました。
また、注目されるのが「辞海」の1カ月前に刊行された「ローマ字で引く国語新辞典」です。それまでの辞書で全然は、肯定にも否定にも使えるような語義が1つだけでしたが、同辞典では「1.全く、まるで(普通、下に打消を伴う)、[(not)at all](例)全然見当がつかない 2.すっかり、全く(前者のくずれた用法で、下に打消を伴わない)[wholly](例)全然間違っている」とし、語義が2つになりました。「辞海」ほど強い決まりは示していませんが、“普通”としながらも初めて打ち消しとの呼応について触れています。「英文学者である編者の福原麟太郎が英語の知識を利用して『not at all』と『wholly』の意味に合わせて語義を2つに分類した」(飛田氏)と考えられています。
2つの辞書が刊行された1952年といえば、「全然」は否定を伴うという意識が急速に広まったとされる昭和20年代後半とちょうど時期が重なります。以後、「辞海」と同じく“必ず”と記述した「角川国語辞典」をはじめ、「正しくは、下に打消しの語を伴う」とした「旺文社版学生国語辞典」など、否定や打ち消しを伴わない「全然+肯定」を俗用やくずれた用法などと注記したものが増えていきます。また、昭和40年代に入ると、文化庁の「外国人のための基本語用例辞典」(1971年)で「あとに打ち消しのことば『ない』などや、否定的な意味のことばがつく」と書かれるなど、辞書の世界で“迷信”が定着した様子がうかがえます。