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「早慶戦」定着、決め手は記者の数? 学生野球の父、飛田穂洲の影響も

2012/5/29

東京六大学野球春季リーグで史上最多に並ぶ43度目の優勝を決めた早稲田大学。慶応義塾大学との伝統の一戦、「早慶戦」も6月最初の週末に迫りました。新聞では草創期からほぼ一貫して早、慶の順で表記してきたことが判明しています。この呼び方がやがて世間一般にも浸透し、慶早戦ではなく早慶戦として定着したと考えられます。ではなぜ新聞で「早慶」が使われるようになったのか? 当時から新聞記者は明らかに早稲田出身者が多かったという事情が手伝ったのではないでしょうか。

■マスコミの早稲田、実業の慶応

今日に至るまで、早稲田出身の記者が極めて多いことは業界では周知の事実。「ザ早慶戦」(井手未来著)の「(早稲田の就職先が)新聞社をはじめ、出版社が目立つのも慶応義塾大学には見られないところ。とくに早稲田の一文はその伝統にひかれて、マスコミ志望者が大勢入学してくる」という例を引くまでもありません。直近の就職実績でも上位に日本新聞協会加盟社が顔を出す早稲田に対し、ベスト20に皆無の慶応は好対照。一方で慶応出身者は実業界に強く、今年1月末時点の上場企業の社長数309人は2位早稲田の190人を抑え断トツです(帝国データバンク調べ)。

こうした傾向が1903年(明治36年)に始まった早慶戦の黎明(れいめい)期からあったことを示す間接証拠はあります。「早稲田大学百年史第1巻」は01年8月時点での卒業生の就職先をまとめており、280人の「新聞雑誌記者」は297人の「銀行会社員」に少し劣るだけの2位になっています。また「慶応義塾野球部史」が、04年の第2回早慶戦を新聞が「球界の関ケ原」などと盛り上げた理由を「それはそのころの新聞記者が大体早大出身者が多かったためもあろう」と記しているのも有力な証拠です。

表1
「早慶戦の謎」で「当時の第一線級のスポーツ記者」として名前が挙がった5人
押川春浪(冒険世界)
早稲田出身。日本のSF小説の祖。早稲田野球部3代目主将押川清の実兄              
水谷竹紫(運動世界)
早稲田出身。劇作家、芸術座の中心人物。女優水谷八重子(初代)の義兄
太田茂(中央新聞)
和仏法律学校卒業。号は四州。運動記者の草分けとして野球殿堂入り
針重敬喜(東京毎日新聞)
早稲田出身。テニスジャーナリストの元祖。選手、協会役員としても活躍
美土路昌一(東京朝日新聞)
早稲田中退。全日本空輸初代社長、朝日新聞社社長などを歴任

(注)かっこ内は当時の所属。美土路は「少し後に加入」として紹介。和仏法律学校は現法政大学

■運動記者も早稲田優位

06年に東京都下発行の新聞・雑誌社の便宜と親睦を図る団体として発足した東京運動記者倶楽部(現在の東京運動記者クラブとは別組織)は、09年8月発行の「野球年報第7号」によれば13新聞と雑誌「冒険世界」「運動世界」(ともに廃刊)の計15人の記者の名前が並びます。「早慶戦の謎」(横田順弥著)でこの15人のうち「まさしく、当時の第一線級のスポーツ記者の集まり」として名前が挙がった4人中3人が早稲田出身で、少し後に加入したとして取り上げられる1人も早稲田中退でした(表1参照)。15人の中に慶応出身者もいることはいますが、有力者・実力者という点では早稲田が上だったのは疑いありません。

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