被災地でスイーツパティシエ鎧塚俊彦

2012/5/29

ダイレクトメッセージ

自分では災害時、映画のヒーローのように超人的働きは無理としても、それに近い的確な判断を下せると思い込んでいた。こんな自信は、こっぱみじんに吹き飛ばされた。

阪神・淡路大震災、神戸で体験

1995年1月17日その日、私は布団の中で既に目覚め、起きようとした瞬間であった。今まで体験した事の無い激しい揺れに見舞われた。すぐ、隣に置かれた背の高い箪笥が倒れてくると感じ、寝ころびながら足で、箪笥の出来るだけ上の部分を壁の方に押し続けた。

陸前高田市の子どもたちと、お菓子づくり

ようやく激しい揺れが収まった後すぐ、京都の実家の母に電話した(この数分後から電話は使えなくなった)。意外に呑気な母の声から、震源地が東海では無いと感じた。あのころ、大きな地震の可能性は東海であり、関西では起きないと一般には信じられていた。実家の安全を確認すると、私はただちに屋外へ出て裏山に上り、街を見下ろした。随所に煙が立っていたが、消防車のサイレン音も無く異様な静けさに包まれていた。裏山から自宅に戻る間、あちこちから漂うガスの匂いが不気味であった。私は車に飛び乗ると、途中何人かのスタッフの家に立ち寄り、無事を確認するたびに自宅待機を命じ、職場へと向かった。

当時、私は神戸の六甲アイランドという新しく出来た人工島の中のホテルで、アシスタントシェフとして働いていた。山手の自宅から海辺へと向かうにつれ、倒壊した家が多くなってきた。倒壊した家屋の住人のことは、「逃げた」と思い込んでいた。何故、あの凄まじい揺れの中で皆、逃げる事が出来たというのか?

 今から考えると、脳が現実逃避していたとしか思えない。倒壊した家々を避けながら運転していた時、その下に多くの人が下敷きになっているとは、まるで想像出来なかったのである。ホテルでもう出勤しているはずの、早番スタッフの事ばかりが気になった。というのは本当だが、ただの建前だったのかもしれない。家族とスタッフの安全を確かめた後、何はともあれ職場へ直行する虚しい性だけだったのかもしれない。

阪神・淡路大震災の発生後、ほんの数分間の話である。交通渋滞も阿鼻叫喚も、まだ全く無かった。それらはおそらく、1~2時間後に襲ってきた。島の手前では、道が泥沼になっていた。当時は「液状化現象」なんて言葉、誰も知らなかった。私は道下の水道管が破裂し、泥沼になっているのだと思った。途中何度も車底を様々な物に打ちつけているのに気付いていたが、ホテルに着いたとき、車のマフラーは根元から折れて無くなっていた。

幸いホテルのスタッフは全員無事だった。それからは、食糧が届かなくなったホテル裏の大病院の入院患者さん向けにパンを2日間焼き続けた。さらにその後は、給水車の手配や市役所、避難所での被災者救済に全力を尽くした。自分なりに、精一杯頑張ったと思う。しかしそれらはすべて、震災約2時間後からである。本来なら一番獅子奮迅しなければならない震災直後の2時間は、全く現状を理解出来ていない情けない状況にあった。

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