感情の揺れとらえるキアロスタミの魔術
カンヌ映画祭リポート2012(3)
アッバス・キアロスタミの姿を初めて見たのは20年前のカンヌだった。路地の向こうから大柄で浅黒い肌のサングラスの男が、背を少し丸めて歩いてきた。ちょっと黒澤明みたいだと思った。ある視点部門で「そして人生はつづく」が上映された1992年のことである。後に「90年代で最も重要な映画作家」と評されるイラン人監督にとっても初めてのカンヌだった。
日本で撮影した日本語映画
「そして人生はつづく」は同年の東京国際映画祭でも上映され、キアロスタミも来日した。以来20年、東京で、山形で、横浜で、何度も会って、話をした。「あのころはみんな子供だったねえ」などと、冗談交じりのおしゃべりをしながら、その言葉がいつしか詩となって、世界に突き刺さる。鷹揚(おうよう)というか、融通無碍(ゆうづうむげ)というか。その作品と同じように、その人柄に魅了され続けてきた。
日本好きのキアロスタミが日本人俳優を起用して、日本人スタッフと共に、日本で撮影した、日本語の映画がついにできあがった。「ライク・サムワン・イン・ラブ」。5月21日夜の公式上映で、俳優の高梨臨、奥野匡、加瀬亮とキアロスタミ監督がパレの赤じゅうたんを歩いた。上映後は満場の拍手が送られた。
シンプルな物語である。風俗嬢のアルバイトをしている女子学生の明子(高梨臨)が一夜の指名を受ける。上京した祖母と会うかどうか迷っていた明子だが、駅前広場で待つ祖母の姿をタクシーの窓から垣間見るだけで、男の家に向かう。男は元大学教授の老人(奥野匡)だった。翌朝、明子を大学まで送った老人は、明子の恋人ノリアキ(加瀬亮)と出会う。ノリアキは老人を明子の祖父だと勘違いする……。
1日にも満たない話だが、その間に何が起こったのかはつまびらかにしない。イタリアで撮った前作「トスカーナの贋作」もそうだった。ただ、男と女が出会い、とりとめのない話をする。もうひとりの男が現れ、またとりとめのない話をする。その間の感情の揺れだけが、流麗な映像のなかに鮮やかにとらえられている。
そもそも映像と音声で構成される映画という表現は、文字で書き表される文学と違って、おそろしく多義的で非論理的なものである。だから理論を表明するのには向いていない。逆にいえば感情しか描けない。キアロスタミはこのことを熟知していて、あらゆる映画的技巧を駆使して、人間の自然な感情をスクリーンの上に再構成する。
「この映画には始まりもなければ、終わりもない」
舞台やドラマでの地味な脇役が多かった奥野匡の記者会見での回想が面白かった。「台本がない映画は初めてでびっくりした。監督は芝居をすること、計算することを嫌う。演技をしないでくれと言われ続けた」と奥野。「だから、ぼくみたいに何もできない人間の方がよかった」
高梨がまぶしい表情をするシーンでは、目隠しをつけられ、それをパッと外して、本当にまぶしい状況を作った。加瀬が息を弾ませて走ってくる場面では、その場で20回のジャンプを課した。キアロスタミの魔術だ。
俳優に渡されなかった脚本も、撮影中に日々変わっていった。生身の俳優に白紙の状態で演じさせ、その生々しさを映画の中に取り込むからだ。
「この映画には始まりもなければ、終わりもない。人生もそういうものではないか」とキアロスタミ。「最後に何が起こるのかは自分で想像して物語を書いてください」
バカげた冗談を言いながら、いつの間にか心が揺れて、涙ぐんでいる。なにやらキアロスタミとの雑談の趣だが、人生とはそういうものかもしれない。「ライク・サムワン・イン・ラブ」はジャズのスタンダード曲で、映画ではエラ・フィッツジェラルドが歌っている。久しぶりにバーボンでも飲みたくなった。
90歳の巨匠レネの挑戦
同じく21日に上映されたのは今年90歳になるフランスの巨匠アラン・レネの「あなたはまだ何も見ていない」。これも、映画的な詐術に満ちた刺激的な作品だった。
劇作家の弔いのために、彼の舞台に出演した俳優たちが南仏の古風な屋敷に集められる。広間のソファに座った俳優たちの前にスクリーンが現れ、かつて上演した芝居のリハーサル映像が映し出される。俳優たちはスクリーンの中の自分の姿を見ながら、いつしか現実の空間でも芝居を始める。
ミシェル・ピコリやマチュー・アマルリックといった十数人の俳優たちがそれぞれ自分自身を演じ、映画の世界と映画の中の映画の世界を往還する。多重的な劇構造が「現実」と思われていた次元を宙づりにする。
何が虚構なのか? 何が現実なの? そうした問いを映画は宿命的に背負っている。レネは「去年マリエンバードで」で、キアロスタミは「トスカーナの贋作」で、その問いを積極的に取り込み、映画表現の可能性に挑んだ。この日上映された2人の新作にもそんな挑戦心が息づいていた。
ムンジウの重さ、ホン・サンスの軽さ
映画祭の中間点である21日までにコンペには12本の作品が登場した。うち半数の6本は1960年代生まれの中堅世代の手による。すでに触れたアンダーソンとヴィンターベアの作品のほかにも、明確なスタイルを感じさせる力作があり、この世代の充実ぶりがうかがえた。
批評家の評価が高いのはルーマニアのクリスティアン・ムンジウ監督「ビヨンド・ザ・ヒルズ」。ルーマニアの修道院で発作を起こした女が医学的な治療を受けられず、危機的な事態に陥っていく。ムンジウが新聞の社会面の記事から霊感を得たという物語だ。
悪魔払いに走る集団心理の恐ろしさはヴィンターベア作品にも通じるもので、そういう意味で現代社会批判である。修道院という舞台は寓意(ぐうい)であろうが、カトリックの国でこれを作るには勇気がいるだろう。
ムンジウのスタイルは一貫している。説明は一切省き、容体が悪化していく女に対して善意からとんでもない治療を施す他の修道女たちの行動だけに注目。それを即物的に撮っている。違法の妊娠中絶を自分たちで遂行しようとする「4ヶ月、3週と2日」と地続きの視点である。
ドキュメンタリーのように生々しく
ムンジウの重さとは対照的なのが韓国のホン・サンス監督「イン・アナザー・カントリー」。軽い恋愛喜劇のような愉快な作品だが、なかなかどうして映画的興奮に満ちていた。
フランス人の3人のアンヌ(イザベル・ユペールが3役)が韓国の海辺の町に旅をする。たいした名所もない退屈な田舎だ。あか抜けない民宿の主人や海水浴場のライフガードらが片言の英語を使って、アンヌを口説き続ける。それだけの話である。
これが実にあやしげな英語で、お互いに伝えたことがどんどん誤解されていく。そのやりとりが漫才みたいに面白いだけでなく、本当の旅行みたいにスリリングなのだ。会話から生じる一瞬一瞬の表情の変化が、あたかもドキュメンタリーのように生々しくとらえられている。
旅の重さ、ならぬ、旅の軽さ。異文化のなかに放り込まれたときのドキドキ感や冒険心が鮮やかに映っているのである。
(編集委員 古賀重樹)
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