「早慶戦」はなぜ、「慶早戦」ではないのか新聞はどう報じてきたか

春の東京六大学野球も終盤戦に入り、6月初めの最終節には「早慶戦」が控えます。日本を代表する私立大学2校、早稲田大学と慶応義塾大学が雌雄を決する戦いは国語辞典にも収録されるほど一般的な言葉になりました。ところでなぜ「慶早戦」ではなく「早慶戦」と呼ばれるようになったのでしょうか。100年を超える伝統を有し、テレビもラジオもなかった時代から行われていたわけですから、当時の新聞が重要な手掛かりを握っているとみて間違いありません。新聞は早慶戦をどう報じてきたのか、歴史をひもといてみました。

慶応勝利の第1回は2紙のみ報道

早稲田大学の創設者である大隈重信の像(東京都新宿区の同キャンパス、写真左)と慶応義塾大学の創設者である福沢諭吉の像(東京都港区の同キャンパス)

記念すべき第1回早慶戦は1903年(明治36年)11月21日、早稲田が送った挑戦状に慶応が応える形で実現しています。当時新興チームだった早稲田に対し、慶応は当時最強チームだった旧制第一高等学校(一高、現東京大学)に次ぐ位置づけで、格の違いがあったことが背景でした。試合も11―9で慶応が勝利。とはいえこの試合は時事新報(現産経新聞)と万朝報(廃刊)の2紙が小さく伝えた程度で、それぞれ「慶応義塾対早稲田大学野球試合」「早稲田大学(改行)慶応義塾 対校野球試合」という見出しでした。

それが翌04年6月の第2回直前、球界の盟主だった一高に早稲田、慶応が立て続けに勝利したことで、がぜん注目を浴びます。ここからは回を追うごとに試合を報じる新聞の数も、紙面での記事の分量も増加の一途。加速度的に世間の人気を博していった過程が如実にうかがえます(参照)。

早稲田対慶応→早慶試合→早慶戦

付随して、報道の仕方も洗練されていきます。「早稲田対慶応野球試合」ではいかにも冗長です。05年には都新聞(現東京新聞)が11月9日付で「早慶野球仕合」という見出しを使用。10を超える当時の主要紙を早慶戦の前後に限って調べた範囲では、早稲田と慶応を「早慶」と略した第1号である可能性が高いと思われます。

たった2文字に省略できるため使い勝手が良く、06年4月28日付の東京朝日新聞(現朝日新聞)では「早慶の庭球試合」と野球以外の用法も出現。「早慶試合」を中心に「早慶対戦」「早慶野球」などの略語が新聞紙上に躍りますが、「早慶戦」という言い回しの誕生は10年まで待たなければなりませんでした。