「早慶戦」はなぜ、「慶早戦」ではないのか新聞はどう報じてきたか

記者倶楽部の声明も「早慶」

早慶の断絶を決定づけた要因に、東京運動記者倶楽部(次回で詳述)による調停の不調がありました。早稲田側が応援団員の人数を守らなかったことが中止の発端となったいきさつもあり、慶応側の断固再開拒否の姿勢を変えるには至りません。06年12月6日付各紙で「是に於いて我等は調停の余地なきを認め」などと事の顛末を記した声明文を発表。この声明文を掲載した9紙の見出しのうち、「運動界の恨事」という1紙を除いた8紙が「早慶野球事件」「早慶第三回戦中止」などと早慶を使っていました。記者倶楽部が作った原文から「早慶」が使われており、各紙も特に異議を唱えなかったと推理すれば合点がいきます。この頃の新聞用語では、既に早慶と呼ぶのが基本だったと断言していいでしょう。

早稲田と慶応を「早慶」と略した最初の記事とみられる1905年11月9日付都新聞

中止期間中の東京朝日07年11月18日付の見出しにあった「慶早両大」は極度のレアケース。辛うじての例外扱いは慶応義塾の創設者である福沢諭吉が創刊した時事新報で、前述の通り第1回の見出しは慶応対早稲田の順です(第2、3回を除き中止前最後の試合まで同様)。11年12月20日付で本文に「慶早両大学野球部」とあったのもうなずけます。

再開後は早慶戦が一般化

中止前は一切「早慶」を使ってこなかった時事新報。ところが早慶戦が復活した25年以降一時休刊する36年まで、紙面に現れるのは専ら「早慶戦」。「創刊時は100%近く、その後もほとんどの記者が慶応出身だった」(時事新報の歴史に詳しい慶応義塾福沢研究センターの都倉武之准教授)新聞がそう記していた事実は重く、この頃(大正から昭和にかけて)は新聞のみならず世間一般でも早慶の順番を動かし難いほどに早慶戦という表記が定着していたと考えられます。事実33年(昭和8年)には、初めて「早慶戦」を採録した辞書とみられる「最新現代語辞典」(大島秀雄編)も出版されています。

となると、慶応の「与党」たる時事新報までもが早慶戦を認めなければいけなかったのはどうしてかという疑問は当然浮かんできます。現在では早慶戦通算勝敗や優勝回数で早稲田に水をあけられている慶応ですが、中止時点での対戦成績は早稲田5勝―慶応4勝と拮抗。実力差は理由になりません。

決め手は記者の数か

早稲田が慶応に挑んだ、という史実から単純に早慶の順で記した? 新聞の見出しで「早稲田(改行)対慶応」が「慶応対(改行)早稲田」より目に見えて多かったのも、1行目が校名だけで済み、校名をつなぐ「対」も2行目に来るため、紙面の見出しをつける整理記者の美的センス上好ましかった? いずれも理由のごくごく一端にすぎないでしょう。決め手と考えられるのが記者の数。「当時から新聞記者は明らかに早稲田出身者が多かったという事情が手伝ったのではないか」という説に基づき、次回(5月29日掲載予定)は記者に重点を置いて考察してみることにします。

(中川淳一)

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