「早慶戦」はなぜ、「慶早戦」ではないのか新聞はどう報じてきたか

「試合」に「戦」を当てた二六新報

早慶試合が早慶戦に発展するまで5年もかかった理由も見当はつきます。試合の意味で「戦」を当てる用字法が当時生まれたばかりだったからです。裏付けとなるのが雑誌「学生タイムス」(廃刊)07年12月1日号の「各新聞の運動記事は如何にして書かるゝや」という分析記事。二六新報(廃刊)について「殊に『二六』の独特の筆鋒たる『野球戦』『庭球戦』と云ふ様な戦の字を以て試合の意味を強く面白くし」「且つ考へて見れば試合と云ふよりは適当な文字として用ゆる筆鋒の如きは今や各新聞雑誌を風靡して用ゐられて居る」と評しているのです。二六では06年10月29日付で「野球戦」が確認できます。他紙では07年11月5日付東京朝日の用例が最も早く、時期的にも合致しています。野球戦という言い回しと早慶試合という言い回しを足して、早慶戦となるまで時間を要したのでしょう。

早稲田の斎藤佑樹投手(現日本ハム)は早慶戦を彩った一人(2010年11月3日の早慶戦登板時、神宮球場)

中止期間中に「早慶戦」誕生の奇縁

早慶戦の初出とみられるのが10年11月24日付東京朝日の「准早慶戦」の見出し。大学野球の歴史に詳しい方は「おや」と感じたかもしれません。早慶戦は06年秋の対戦が1勝1敗となった時点で応援合戦が過熱し、一触即発の状態となって第3戦が中止。以後25年(大正14年)秋の東京六大学野球連盟創設とともに再開されるまで19年の空白期間が生じた経緯があるからです。

プロ野球はもちろん、高校野球(当時は中等学校野球)も始まっていなかったこの時代、大衆娯楽としての両校の対校戦へのニーズは根強いものがありました。代わりに組まれたのがOB主体のチームなどによる試合で、このゲームを表現するために考案されたのが「准早慶戦」。早慶戦の中止が早慶戦という言葉が生まれるきっかけになったとすれば奇縁です。

中止前は「慶早」見当たらず

早慶戦が中止に至るまでの時事新報、万朝報、都、東京朝日、二六、東京毎日新聞(廃刊)、中央新聞(同)、東京日日新聞(現毎日新聞)、報知新聞、読売新聞、中外商業新報(現日本経済新聞)、やまと新聞(廃刊)、日本(同)、国民新聞(現東京新聞)の各紙を試合の前後に限って調べた結果、「早慶」が見つかりこそすれ「慶早」という記述は1件も見当たりませんでした。

「慶応対早稲田」と慶応を先に記す見出しは複数の新聞で散見されるものの、その試合は慶応が勝っていたため単に勝者を先に持ってきただけの節もあります。また早慶戦の報道を始めるのが遅かった新聞ほど、見出しでは早稲田を先に持ってくる傾向が強いようにも見受けられます。

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