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歴史から消えた「東京球場」 伝統の一戦は江東区から

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NIKKEI STYLE

球春到来。東京では3月30日、東京ドームでプロ野球の開幕戦が行われる。現在、東京と名のつく球場は東京ドームだけだが、かつては4カ所にあった。荒川、三鷹、上井草、東陽町。歴史を彩る野球場の跡地を歩き、痕跡を探ってみた。

下町の「光の球場」、金メダリストのプールに

昭和のにおいを残す町、南千住。駅から住宅街を10分ほど歩くと、「荒川総合スポーツセンター」が見えてくる。水泳の北島康介選手が子供のころ泳いでいたことで知られるプールがある、複合スポーツ施設だ。

建物の中に入ると、受付の横に野球のサインボールがあった。土橋正幸、山内一弘、有藤道世(通世)……。往年のスターの名前がずらり。実はこの場所にはかつて「東京スタジアム」という名の野球場があったのだ。「東京球場」とも呼ばれていた。

「日暮里駅から常磐線に乗ると、夜空にぽっかり球場が浮かび上がってきて、それは幻想的な光景でした」。元近鉄バファローズ応援団長で「昭和プロ野球を彩った『球場』物語」などの著書がある佐野正幸さんが思い出を語る。1960年代半ば、下町のカクテル光線は異彩を放っていた。「光の球場」。いつしかそう呼ばれるようになった。

1962年(昭和37年)、東京スタジアムは毎日大映オリオンズ(略称は大毎オリオンズ)の本拠地として誕生した。大毎はのちに東京オリオンズ→ロッテオリオンズと名前を変え、現在の千葉ロッテマリーンズへとつながる球団だ。

球場建設を推進したのは映画界の重鎮、大映の永田雅一社長。剛腕で知られた永田氏の力は絶大で、球場開きの日にはパ・リーグ6球団の選手を参加させたという。開場式は午後4時からで「後楽園で試合があった東映や西鉄は練習もできなかったのではないか」と佐野さんは笑う。

佐野さんによると、東京スタジアムは当時としては画期的なスタジアムだった。内野には日本で初めて天然芝を敷き、水まきは自動。外野フェンスにはラバーを張り、バリアフリーの誘導路まであった。下町の雰囲気漂う庶民的な球場でありながらも、設備は後楽園よりも整っていたという。ただし外野のふくらみがなく、ホームラン量産球場とも呼ばれた。

応援歌「東京音頭」はオリオンズが先に使用

東京スタジアムは、意外なものの誕生地でもある。現在、東京ヤクルトスワローズが応援歌として使っている「東京音頭」だ。実はこの応援歌、ヤクルトの専売特許ではない。ヤクルトより10年以上前、東京スタジアムを本拠地としていた東京オリオンズが最初に使ったのだ。

1964年(昭和39年)、大毎オリオンズは東京オリオンズと改名した。東京という名にふさわしい応援歌はないか。白羽の矢がたったのが東京音頭だった。

そもそも東京音頭は1932年(昭和7年)、盆踊り用の音楽として作られた。当初は「丸の内音頭」という題名だった。翌年に「東京音頭」と改名して大ヒット。誰もが知る曲は、応援歌にふさわしいと判断したようだ。

オリオンズは1972年(昭和47年)を最後に東京スタジアムを去り、東京音頭を使わなくなった。ヤクルトが使い始めたのは1970年代後半のことだ。チームを失った東京スタジアムは1977年(昭和52年)に取り壊され、跡地はスポーツ施設に。野球のグラウンドは今も残っているが、現地に当時を語るモニュメントはない。

三鷹に「日本一短命な野球場」

東京スタジアム開設より11年前、「東京スタディアム」という名の野球場があった。場所は武蔵野市。わずか1年間だけ使われた球場で、地元でもあまり知られていない。実働1年、解体まで5年という日本一短命な野球場でもあった。

この球場、国鉄がバックアップしていたといい、球場開設と同時に「武蔵野競技場前」という駅ができた。三鷹から延伸した中央本線武蔵野競技場線で、列車は試合がある日だけ運行したという。

球場は零戦製造で知られる中島飛行機の工場跡地に造られており、工場まではかつて三鷹駅から物資を運ぶための引き込み線があった。この線路を利用したのだ。さっそく場所を調べ、跡地を歩いてみた。

三鷹駅北口を出て、武蔵境駅に向かって歩く。右手に「堀合児童公園」が見えるあたりから、線路が分岐していたようだ。線路跡は遊歩道になっていて、所々に残る「工」マーク(旧国鉄のマーク)がついた境界杭(くい)の存在が、かつてここに線路があったことをしのばせる。遊歩道の名は「グリーンパーク遊歩道」。この名前こそが、球場の名残なのだ。

「この球場、正式名称は東京スタディアムですが、運営会社は『武蔵野グリーンパーク』と呼んでほしいと訴えていました」。佐野さんが語る。「しかし実際には文字数が多いので敬遠され、新聞では『三鷹球場』『武蔵野球場』などとばらばらに表記していたようです。これも球場が定着しなかった一因でしょう」

球場が誕生したのは1951年(昭和26年)。「ベースボールマガジン 2001年夏季号」によると、両翼91.4メートル、中堅128メートルの立派な球場だった。収容人数も6万人近かったという。これほどの大球場がなぜ、短命に終わったのか?

ベースボールジャーナリストの横尾弘一さんが同誌に書いた記事「たった1年で消えたホームグラウンド」によると、不人気の主因は土ぼこりだという。

野球にとって、土ぼこりはばかにならない。風が吹くとグラウンド全体がかすむほどで、試合進行に支障を来したという。外野スタンドに舗装も芝生もなく、ただ土が盛られていただけ、ということも影響した。

悪評が広がり、5月5日の開場後、6月には一時閉鎖。整備をして7月に再開したものの、選手にも観客にも不評で思うような興行ができず、8月の試合を最後に使われなくなった。当時はフランチャイズ制が確立する前で、使う球団が定まっていなかったことも響いたようだ。

運営会社は1953年(昭和28年)に解散し、野球場も1956年(昭和31年)に解体。跡地は現在、武蔵野中央公園となっている。三鷹駅から遊歩道を歩いて40分ほど。散歩コースとしてはおすすめではある。

後楽園、最初のチームは巨人ではなくイーグルス

東京にはその名もずばり、「東京球場」という球場があった。西武新宿線上井草駅近くにあり、「上井草球場」という名で親しまれた。正式名称よりもこちらの方が通りがいい。

開場は1936年(昭和11年)。日本職業野球連盟が結成され、プロ野球のリーグ戦が始まった年だ。日本初のプロ球団、日本運動協会の本拠地だった芝浦球場は関東大震災後に閉鎖となり、東京有数の球場、神宮球場と戸塚球場はいずれも学生野球が主。プロ専用の球場として、大きな期待を集めての開場だった。

佐野さんによると、1936年8月の開場後、同年には21試合、翌1937年には56試合とフル回転した。しかし1938年になるとわずか6試合に激減。それも1日3試合のトリプルヘッダーが2日、というありさまだ。なぜここまで減ったのか。

杉並区に尋ねると「1937年に都心に後楽園球場ができたことが大きい」という。当時、上井草は「遠い」印象があった。土ぼこりが舞うという悪条件も重なった。期待を集めた球場は、「わずか3年でプロ野球界から見放された」(佐野さん)。

ちなみにその後楽園球場(正式名称は後楽園スタヂアム)。今でこそ巨人の本拠地とのイメージが強いが、実は最初に本拠地としたのは巨人ではない。後楽園イーグルスという球場所属のチームだった。しかしすぐに巨人が優先使用権を持つようになり、球場サイドはイーグルスとの関係を解消。イーグルスは黒鷲軍、大和軍などと名前を変えたのち、消滅した。

上井草球場の跡地には現在、上井草スポーツセンターという総合体育施設がある。グラウンドは残り、都内有数の草野球場として人気が高い。

観客90人、満潮で試合中止… 草創期支えた洲崎球場

地下鉄東陽町駅から歩いて5分ほど、東京都の江東運転免許試験場の向かいに「伝統の一戦誕生の地」と書かれたプレートがある。かつてこの地に洲崎球場というプロ野球草創期を支えた球場があった。

球場ができたのは上井草と同じ1936年。期待の専用球場としてスタートした。大東京軍の専用グラウンドだったことから「大東京球場」と呼ばれることもあった。

プロ野球最初の日本一を決める巨人対タイガース(現・阪神)戦は洲崎球場で行われ、巨人の沢村栄治投手らが熱戦を繰り広げた。これが後に伝統の一戦と呼ばれる由来となった。翌37年には92試合も行われるなどまさにフル回転だった。

この洲崎球場、不名誉な記録を生んだ球場でもある。1937年7月17日。イーグルス対金鯱戦は観客が90人しかいなかった。これは今なお観客数のワースト記録とされている。埋め立て地に造られたため満潮になると海水が入り込み、試合が中止になったこともあるという。

球場の近くには「洲崎パラダイス」という遊郭があった。ちょうど地下鉄木場駅と東陽町駅の間にあったようだ。歩いてみたが、ほとんど痕跡は消えていた。かろうじて、カフェー建築と呼ばれる建物が1軒だけあった。カフェー建築とは木造にタイルなどを貼った建物のことで、とにかく派手。数年前まで何軒か残っていたが、1軒を残してマンションなどに姿を変えていた。

東京スタジアム、東京スタディアム、東京球場、そして大東京球場。東京にはこのほかにも芝浦球場、戸塚球場(安部球場)、駒沢野球場、後楽園スタヂアムと4カ所にプロが使った野球場があった。しかし現地を歩いてみると、その歴史を伝える痕跡や記念碑はほとんどない。今なお人々の記憶に残っているだけに、ちょっと残念な気もする。(河尻定)


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