2012/1/14

耳寄りな話題

大阪府庁舎に刻まれた「大阪府廳」の文字(写真左)と京都府庁の門柱(同右)

「3都市が首都候補地だった表れでは」と唱えるのは、都道府県の由来に詳しい琵琶湖博物館(滋賀県草津市)の戸田孝主任学芸員。事実、明治政府は当時3都市を念頭に、遷都論を活発に議論していた。浪速(大阪)遷都論、江戸(東京)と京都(西京)の東西二京論などだ。

戸田学芸員は「開発余地やインフラから、江戸はもともと本命でした。ただ戊辰戦争で江戸が戦禍に巻き込まれていれば、財政難の明治政府には新都を造る余力はありませんでした」と指摘。戊辰戦争後も各地で反乱が続き、「決して安泰ではなかった東京から、再び天皇の居所を変える事態も視野に入れていたのでは」と付け加える。

「府」は、1871年の廃藩置県を経て1890年の府県制で確立。太平洋戦争中に東京府が東京市と統合して東京都になるまで、3府が続く。戦後の地方自治法施行で「府」の立場は「都」「道」「県」と対等になったが、名称は引き継がれた。

大阪都構想を唱える大阪維新の会の幹部は「東京と同じ行政の枠組みが実現した場合、名称も『大阪都』にしたい」と話す。確かに「都」について地方自治法には「首都所在地に限る」との規定がない。

そもそも現在は東京を首都とする法律自体がなく、政府や天皇の居所などがあることから慣習的に「首都」とされているという。「実は維新の際、京都から東京に移るにあたって天皇は、詔を出すなど明確な形で遷都を宣言していません」と佐々木名誉教授が教えてくれた。いまだに京都を都と見なす説もあるという。「大阪都構想の余波で『首都とは何か』という議論が起きるかもしれませんね」(大阪社会部 舩越純一)

[日本経済新聞大阪夕刊いまドキ関西2012年1月11日付]

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