Bunkamura「下谷万年町物語」“舞台の精”宮沢りえの躍動する演技に驚き

洋一の藤原竜也がめざましく、文ちゃんの西島隆弘が精神の内向をよく演じている。唐の芝居で育った金守珍、六平直政が劇をけん引し、沢竜二が異風の持ち味を出し切っている。実に熱い一座だ。

PARCO劇場(当時、西武劇場)の初演は見ていないが、劇評を読むと戯曲の奔放さへの驚きが特筆されている。時代の刻印を帯びる作だけに時の経過でわかりにくさが増し、作者の思い入れが冗長に感じられる面も否めない。が、今回の蜷川演出は言葉を選びとって、非業の死者をいたむ劇として力強く構成した。宮沢りえの大活躍はそのたまもの。

猛火に焼かれた下町で、男とはぐれた踊り子が麻薬(ヒロポン)の中毒になり、身投げしたらしい池の水底から復活する。そのただずまいは、さびしい。ちなみに戦場で突撃する兵士に与えられたヒロポンは戦後出回り、多くの中毒者を出した(女漫才師のミスワカナが有名)。注射器をもつと6本指になる哀しい怪獣に、戦後闇に沈んだ女たちの魂をみる演出だろう。爆音の生々しさで、作品の構造を一気に示す蜷川の力業である。

あえて能になぞらえれば、よみがえる死者(後シテ)が現世に残した思いのたけを語り、はげしく舞うのに似る。3年前、能の構造を借りた井上ひさしの「ムサシ」を演出したころから、蜷川幸雄の舞台に死者へのまなざしが色濃く働くようになった。この舞台もその線上にあるといえるだろう。

カゲロウのようにはかない宮沢りえの身体は蘇生(そせい)した女の、つかの間の生の燃焼を思わせる。リズミカルな手足の動きには微妙なずれがあって、その破調が哀感を映しだしてくるのである。唐十郎風にいえば、人魚の目に浮かぶ涙のように……。

唐自身が日によって特別出演、ずぶぬれになって客席をわかせる。改装を終えた劇場のリオープン。(編集委員 内田洋一)

2月12日まで、シアターコクーン。

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