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ことばオンライン

2012/1/10

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「脩」に込めた巨人打倒

49年末、監督を水原に譲ってユニホームを脱いだ三原には「総監督」の肩書が与えられますが、実際にはこれといった仕事もない窓際族でした。選手・監督として尽くした球団からの理不尽な仕打ちに遭うさなか、舞い込んだのが西鉄からの監督就任要請。50年限りで巨人を退団し、51年初めに西鉄が本拠地を置いていた福岡へと渡ります。三原が脩へと改名したのは、まさにこのタイミングでした。監督の座を追われた苦い記憶を、自戒の意味も込めて胸に刻むために。「巨人の三原修」から「西鉄の三原脩」へと、新天地で新しい自分になるために。心中を察するに、様々な決意を込めたことでしょう。「心機一転の改名という見方は、多分その通りだろう」と博さん。「巨人は相当強いチームだったから、それを破るチームをつくるという決意もあったはず」とも加えています。

高松市中央公園には西鉄のユニホーム姿の三原(右)と巨人のユニホーム姿の水原、終生のライバルだった二人の銅像が並び立っている

三原が巨人や水原に対してどれほど激しい感情を抱いていたか、自著にほとばしるような筆致で記している点も裏付けになります。「当時、九州へ都落ちしていくときの複雑悲壮な気持は、言葉や筆では、とうてい現わせない。必ず都へ攻め上り、巨人軍をたたいてやろう、と心に誓ったものだった」(「監督はスタンドとも勝負する」、63年)。「『水原君に煮え湯をのまされたんだ』と、繰り返し繰り返す。(略)。いつか、グラウンドで対決したときに、この怨念をぶつけよう」(「人づかいの魔術」、83年)。58年、水原巨人との日本シリーズで西鉄を率いた際の3連敗後の4連勝という今なお語り継がれる劇的な日本一も、筆舌に尽くし難い悔しさが原動力になってのことだったと思われます。

正式改名に戸籍法の壁

当時の新聞記事によると、読売は古巣とあってか他紙に先駆けて改名情報を知った形跡があります。51年1月19日付で早速と「三原脩」表記へ変更。遅れて開幕直前、3月25日付スポーツニッポンや3月29日付日刊スポーツなどでも脩表記が確認できます。この後もマスメディアでは「三原修」表記が散見されますが、既に述べたような脩と修の関係の誤解が理由の一端とみられます。もう一点、戸籍上はあくまで三原修のままだった点も挙げられます。 

戸籍を脩に変更しなかったのではなく、変更できなかったというのが真実です。47年まで日本人の命名には、漢字の使用に制限はありませんでした。それが「子の名には、常用平易な文字を用いなければならない」と定めた戸籍法が48年に施行されたことにより、当用漢字(1850字)のみへと限定されます。これではいかにも名付けには不便だということで、51年に92字の人名用漢字を新設。とはいえ脩は当用漢字にも、この92字にも含まれていませんでした。三原が脩へ改名したといってもこの時点ではプロ野球の監督としての登録名にすぎず、公的なものではなかったということです。

脩が人名に使えるようになったのは、常用漢字表の施行に合わせて人名用漢字に54字が追加された81年10月1日のこと。脩への改名申請を家裁に届け出たという博さんによれば「すぐに改名が認められた」そうで、名実ともに三原脩が本名となったわけです。一種のグラウンドネームとしてだけでなく、野球を離れた日常生活でも通称としても脩の字を用い続けた実績が考慮されたとみて間違いありません。

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