映画回顧2011
「映画とは何か?」を問う
映画とは何か? その始原以来110余年ものあいだ繰り返されてきた問いが、差し迫った現実としてのしかかってきた年だった。
背景にあるのはデジタル化である。
映画には規格がある。たとえばフィルムの幅は35ミリで、ひとコマの両端に4つずつ穴がある。これはエジソンの時代から変わらない。あるいは1秒間に24コマを映し出す。これはトーキーの登場以来のグローバルスタンダードだ。
そんな絶対的な「決まり」が、いま、消えていこうとしている。
大手シネコンは来年までに米国規格のデジタル上映設備の導入をほぼ完了する。全国規模で封切られる新作映画の上映は基本的にデジタルで上映され、フィルムでの上映は例外的なものとなる。
多くの観客はスクリーンを見てもフィルム上映とデジタル上映の区別がつかないだろう。しかしながら、映画とは第一義的にモノである。エジソン以来の規格のフィルムをこしらえて、各地の映画館に届けて、映写機にかけるというプロセスが消滅する時点で、製作、配給、興行のありようはおのずと変わる。
映画館は大きく変わりつつある。サッカーやオペラからAKB48まで、映画以外のデジタルコンテンツの興行が急速に増えた。
かつての映画館は35ミリフィルムを上映する施設であったから、コンテンツはおのずと映画であった。ところが、映写機がデジタルプロジェクターになってからは、映画に縛られることはない。映画よりも客が集まり、高い料金がとれるとしたら、そんなコンテンツを積極的に手がけるのは興行者としては当然のことだ。シネコンは映画だけを見せる場所ではなくなった。
映画の作り方はすでに大きく変わっている。デジタル化は製作過程で先行しているからだ。編集はほぼすべてがデジタル化したし、撮影も多くがデジタルになった。
その結果、製作コストが大幅に下がった。機材は安価だし、難しい技術もいらない。強大な権力も膨大な金もいらない。映画を作るのが国家や資本家の特権であった時代は完全に去った。世界の辺境のドキュメンタリー作家や日本の貧乏な自主映画作家の作品が世界を驚かせた。
誰もが映画を作れるし、上映できる。そんな映画の民主化ともいうべき流れは、撮影所システムが崩壊する1960~70年代以降、確実に進んできたわけだが、デジタル化という原理的な革命は、この流れを劇的に加速した。良かれ、悪しかれ、である。
「映画」という概念は大きく揺らいでいる。それは興行成績にも影を落としている。
年間興行収入は前年比20%減の1800億円程度まで落ち込み、ここ10年で最低となる見通しだ。震災の影響は確かにあるが、映画館がほぼ復旧した秋以降も落ち込みは続いている。映画ジャーナリストの大高宏雄氏は「魅力のある作品が少なく、映画離れが進んだ」と見る。
昨年3本あった興収100億円超の大ヒットが今年はゼロ。頼みの3D大作が「ハリー・ポッター」「パイレーツ・オブ・カリビアン」などシリーズ物の続編ばかりで、昨年の「アバター」「アリス・イン・ワンダーランド」のような新機軸がなかった。邦画も宮崎吾朗監督「コクリコ坂から」の40億円台が最高。昨年は70億円以上が3本あった。
邦画は「踊る大捜査線」「海猿」のような強力なシリーズがなかったせいもあるが、テレビ局主導の大作の動員力が全体的に落ちている。2000年代の邦画市場の中核を占めたこの種の映画の地盤沈下は興行界にとって深刻だが、テレビの影響力が右肩下がりである以上、当然の成り行きともいえる。
加えて昨年の「告白」「悪人」「おとうと」のような、監督の顔がはっきり見える映画が興収上位にほとんど見当たらない。力があったのは成島出監督「八日目の蝉」、新味を感じたのは大根仁監督「モテキ」ぐらいか。
いわゆる「映画らしい映画」の興行不振。個々の作品の出来不出来はともかく、観客の間で「映画らしい映画」のイメージがぼやけてきたのではないか。映画というものの輪郭が溶解しているのだ。
映画は緩やかに解体に向かっている。
この流れはデジタル化を背景にした不可逆的なものだろう。だからこそ、そんな流れに抗(あらが)うような作品に、真の映画の手触りがあった。
緩やかな解体に抗う上で、デジタルを使うか、使わないかはあまり重要ではない。映画が解体に向かう状況のなかで、「映画とは何か」を真摯(しんし)に問い続ける作り手の姿勢こそが重要なのである。そんな営みが、映画を文化・芸術の1ジャンルとして留め置く根拠となるからだ。
例えば新藤兼人監督の「一枚のハガキ」。戦前戦後の映画史を生き抜く99歳は、自身の戦争体験を極度に簡略化、様式化した映像で表現した。どのショットにも意志がみなぎり、強烈な作家性を感じさせた。1930年代の日本映画黄金時代から戦後の独立プロ運動を経て現在まで連綿と映画を作り続けた人の「最後の作品」には、映画の心棒のようなゴツンとしたものがあった。
例えば園子温監督の「冷たい熱帯魚」。1980年代以来の日本映画の異端児は、自らの詩情をたたきつけ、現代日本を撃ち続けた。旺盛かつ野心的な創作活動で、ベルリン、ベネチア、カンヌの三大映画祭に連続出品したのに続き、今年のベネチアで新人俳優賞を獲得した「ヒミズ」では震災後の日本を描いてみせた。
例えば富田克也監督の「サウダーヂ」。東京~甲府間のトラック運転手として働きながら仲間と自主製作した作品は、欧州におけるアジア映画の登竜門として知られるナント三大陸映画祭で最高賞を射止めた。現実の土木労働者や外国人労働者を配役し、年月をかけて地方都市、甲府の現実に迫る。そんな手法は、自主製作でしかできない。日本映画の新しい方向性を示した。
自主製作、自主上映の作品はどんどん増えている。国際映画祭のコンペにいきなり出品されることも珍しくなくなった。混沌(こんとん)とした状況の中で、世界は才能を求めているし、新人は突破口を求めている。そのうえで力のある作品が確実に増えている。劇場公開作品だけで日本映画を論じることは次第に難しくなってきた。
平野勝之監督「監督失格」、砂田麻美監督「エンディングノート」などドキュメンタリー映画の劇場公開が増えた。デジタル化の恩恵はこの分野にも確実に及んでいる。その中で力のある作品が登場し、多くの人に見られたことは喜ばしい。映画の原点であるドキュメンタリーが豊かになることは、映画の土壌が豊かになることである。
イランのアミール・ナデリ監督が日本で撮った日本映画「CUT」は、絶え間ない欲動を形象化する監督の資質が明確に表れた快作だった。ナデリの世界はイランでもニューヨークでも東京でも変わらない。従来の凡庸な合作映画のように異国情緒を求めて日本を撮ったのではない。人との出会いや題材との出会いから必然的に日本で撮ったのだ。グローバル化が進むなか、そんな風に世界を渡り歩いて映画を撮る監督は確実に増えている。同じイランのアッバス・キアロスタミ監督も新作を日本で撮影した。
撮影所システムが崩壊した70年代以降の日本映画を支え続けた俳優、原田芳雄が主演作「大鹿村騒動記」(阪本順治監督)を残して、世を去った。80年代に鮮やかに登場して以来、時代の空気をとらえた作品で第一線に立ち続けた監督、森田芳光も急逝した。価値軸なき時代に、明らかに個性的な映画を作り続けた2つの才能。映画が大きな転換点にさしかかる今、その不在が悔やまれる。
(編集委員 古賀重樹)
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