2011/12/21

歴史博士

今も残る大津波の昔話

宝国寺の加藤秀俊住職

多賀城市が「上千軒、下千軒」といわれ繁栄していた当時、「こさじ」という名の少女が妖怪の猩々(しょうじょう)に教えられ、大津波のときに末の松山に逃げ一命をとりとめたとする昔話がある。同市教育委員会文化財課文化財係の滝川ちかこさんは「貞観津波の記録として語り継がれてきたのではないか」と指摘する。金沢規雄・宮城教育大名誉教授の研究では、末の松山は地元民衆の古代民謡で謡われたという。

末の松山が京都の歌壇に登場するのは古今和歌集(905年)からだ。「君をおきて あだし心を 我がもたば 末の松山 浪も越えなむ」(あなたをさしおいて私がほかの人を思う気持ちを持ったとしたら波が末の松山を越えるだろう。それほどにありえないことだ)。現地で歌う「東歌」として入選した。都から赴任してきた官人、東国から移住してきた人々、都の文化に触発された地元の人々らが歌の詠み手となった可能性を金沢名誉教授は説いている。


多賀城市に隣接する海岸沿いはまだ手つかずのまま


「末の松山」より海側では復旧が進んでいない地区も(多賀城市)



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時が記憶を風化、恋歌の枕詞へ