2011/12/21

歴史博士

「末の松山」は海から2キロ内陸

歌枕の場所はかつて松尾芭蕉らが足を運んだ同市の宝国寺の裏山の松が有力とされる。約19メートルのクロマツが2本そびえ立っており、同寺の2代目の松とされる。場所はJR仙石線の多賀城駅から南へ徒歩10分の住宅街の中にある。海から約2キロ内陸部にあり、普段、波が来ることはまずあり得ない。

貞観地震の再来とされる3月11日の東日本大震災は多賀城市も襲った。市内を流れる砂押川の堤防は決壊。宝国寺には約100人の市民が避難した。門前の道路には約1.8メートルの津波が押し寄せたという。近くでスーパーを経営する鈴木節子さんは「店に海水がどっと入り込んで冷凍庫などを押し倒した」と振り返る。12月の今も津波の爪痕は市内のあちこちに残る。

東日本大震災の津波も届かず

しかし宝国寺は「本殿の石段まで水につかった程度」(加藤秀俊住職)で深刻な被害は受けなかった。松山は寺から急斜面上のさらに約8メートル高い場所にあり、今回も波が越えることはなかった。加藤住職は「高齢者の家族を抱える市民が地震時に避難してくることは以前から多かった」と話す。「『末の松山浪こさじ』と言い伝えられてきている」

「最新のデータ分析と古典の解読が災害予防につながる」と説く河野幸夫・東北学院大教授(12月、同大主催の市民フォーラムで)

今、関係者の間で読み直されている論文がある。4年前に河野幸夫・東北学院大教授が発表した「歌枕『末の松山』と海底考古学」(「国文学」2007年12月臨時増刊号、学燈社)がそれ。元輔の和歌と東日本大震災に匹敵する津波が起きた貞観地震との関わりを実証的に考察した異色の一文だ。

河野教授は仙台湾に水没した寺社などの遺跡を海底に潜って調査。仙台平野などの地形を踏まえて貞観津波をシミュレーション分析したところ、平安初期の史書「三代実録」に記された記録と完全に一致したという。宝国寺近くの歌枕遺跡「沖の石」は内陸部にありながら河岸・河口付近の岩石群だ。河野教授は「津波が押し寄せてきたときは末の松山は大海の孤島のような状態になっただろう」と結論している。

日本文学の石井正己・東京学芸大学教授は「海底考古学など最新科学の成果を和歌の解釈に利用するのは今までにない」と高く評価する。河野教授は近い将来の大津波の可能性にも言及していた。



「末の松山」から見下ろすと急な斜面に立っているのが分かる
現地では決壊した堤防の工事が続けられていた

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今も残る大津波の昔話