欧州風から米国風へ――街づくりの転換点に「ビルヂング」採用

そもそも、同社の物件はなぜ「ビルヂング」なのだろう。歴史をひもとくと、「ビルヂング」の登場もまた、大きな転換点となっていた。

(注)ビル名はすべて現在の名称

明治維新以降、現在丸の内がある場所は官有地として陸軍省などが管理していた。1890年(明治23年)、岩崎弥太郎の弟で三菱社2代目社長の岩崎弥之助が一帯の払い下げを受けたのが丸の内の歴史の始まりだ。当時はまだ草ぼうぼうの土地で、「三菱ヶ原」ともいわれた。

1894年(明治27年)には丸の内で最初のオフィスビル「三菱第1号館」が完成。第2号館、第3号館と続いた。英国の建築家、ジョサイア・コンドルが設計した赤レンガ造りの建物が並ぶこのエリアは、街区がちょうど100メートル(1丁)だったことから、「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれた。(三菱地所編『THE丸の内 100年の歴史とガイド』より)

大正時代に入ると、より近代的で機能的なオフィスビルが求められるようになってきた。その先駆けとなったのが1918年(大正7年)竣工の「東京海上ビルディング」だ。装飾性を重視した欧州式から、外観をシンプルにまとめた実用重視の米国式へと転換したビルといわれている。東京海上の社史によると、日本で「ビルディング」という名称を使ったのはこれが初めてだという。

「丸ノ内ビルヂング」が登場するのはそれから5年後の1923年(大正12年)2月、関東大震災の直前のことだ。米国式の大規模ビルで、初めて商店街ができたビルでもあった。

「東京海上日動ビルディング本館」(左)は1974年に建て替えられた。右は2007年建て替えの「新丸の内ビルディング」

「東京海上ビルディング」と「丸ノ内ビルヂング」が並ぶエリアは「一丁紐育(ニューヨーク)」と呼ばれ、それまでの「一丁倫敦」とは違う、新しい東京を象徴する街並みとして話題を集めた。三菱地所の担当者は「欧州式から米国式への転換点という意識が、それまでの三菱第何号館という名前から『ビルヂング』への名称変更につながったのではないか」と話す。「丸ノ内ビルヂング」以降、同社が建てるビルは「ビルヂング」が基本となった。

同社所有のビル以外でも、ビルヂングの名称は存在するのだろうか。1930年(昭和5年)に丸の内周辺のビル所有者が集まってできた「ビルヂング茶話会」にルーツを持つ日本ビルヂング協会連合会(東京・千代田)に聞いた。「ありますが数は少ないですね。棟数では三菱地所系の物件が圧倒的です」との答えが返ってきた。

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「ビルヂング」の表記、ローマ字方式が影響?
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