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歴史博士

忠臣蔵、410年目のお城再興 赤穂城(兵庫県赤穂市) 古きを歩けば(12)

2011/12/6

1971年に国史跡となり、復元が本格化した赤穂城。本丸門は96年に再建された

1701年、藩主の浅野長矩が江戸城内で刃傷事件を起こし切腹――。急を知らせる使者到着から城明け渡しまで、赤穂の1カ月の動きは忠臣蔵の前段のヤマ場だ。その舞台、赤穂城は明治期に廃城となったが、約40年前から往時の姿への復元が進んでいる。

「横矢掛かり」の技法導入

約19ヘクタールの城内は今は広々とした公園となり、週末には多くの人々が散策を楽しむ。大手門やその脇にある櫓(やぐら)、本丸門や周辺の城壁などが既に再建され、しっくいの白さが鮮やかだ。連続して折れる塀や石垣の複雑な構造が目を引く。攻め手への側面攻撃を重視した「横矢掛かり」と呼ばれる技法という。「やや凝りすぎという感じもしますね」。長年調査に携わる同市教育委員会文化財担当課長の中田宗伯さんはほほ笑む。

設計には甲州流軍学を取り入れ、塀や石垣は複雑に折れて連続する構造だ

本丸に登ると地表面に、水道管跡の表示があるのに気が付く。赤穂城は現在では市街地にあるが、もともとは三角州の先端に築かれ、三方を海に囲まれた「海城」だった。井戸を掘っても塩水しか出ず、城内や城下町には水道網が整備されていたという。

長矩の祖父、浅野長直が13年がかりで赤穂城を完成させたのは1661年。実戦を意識し、甲州流軍学を十分に取り入れて設計されたという。天守は土台だけが築かれ建物は造られなかった一方、本丸と二之丸には城には珍しく大規模な庭園が造られていた。すでに大阪夏の陣から約半世紀が過ぎ、太平の世だったことがうかがえる。この城が戦火に包まれることは廃城になるまで1度もなかった。

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