青年団「ソウル市民」5部作日常のさりげない光景から歴史の全体像とらえる

これらの舞台には奇術師、ニセ相撲取り、謎の芸術家集団などが飛び入りする。そんな外地の根無し草たちが奇妙なアクセントとなって、家族の時間にさざ波を起こす。その不協和音に時代のゆがみを映しこむ平田オリザの手際はたしかだ。

2本の新作は喜劇に大きく傾斜する。成長著しい役者たちがボードヴィル(歌舞などを取り入れた娯楽劇)の魅力さえ発揮して、舞台を生き生きと躍動させたのはお手柄だ。時局の悪化が人間のこっけいさを強く印象づけるのだ。とりわけ「ソウル市民1939 恋愛二重奏」は歌謡ショーもどき。この舞台は流行歌の響きで歴史をとらえ返す。日米開戦まで2年、破滅的な敗戦まであと6年。この年秋のソウルはつかのまの繁栄を享受している。「東京ラプソディー」で盛りあがる篠崎家にむろん危機感はない。

例によって奇妙な訪問者がある。ホームステイで受け入れるニセのヒットラー・ユーゲント(ナチスの青少年組織)がそれで、演じる女優ブライアリー・ロングが必見のユニークさ。日独2言語を巧みに使い分け、硬直したナチスの身体感覚を体現する。ゲルマン精神やユダヤ謀略説を鼓吹し、日本の及び腰をしかりとばし、本当にあった時局歌「万歳ヒットラー・ユーゲント」(北原白秋作詞)を日本人と高らかに合唱する。

思わず吹き出したくなるが、それが胸のうちで鋭い痛覚に反転するのは日独軍事同盟やナチスのユダヤ人迫害の結末がわかっているから。ところが、劇中の人間は未来が見えていない。ドイツ人も日本人も、無責任な市民たちが自ら歓呼の声をあげ、時代の狂気に染まっていく。大日本帝国の志願兵になる朝鮮人書生と現地女性のさびしい恋愛模様が、日独の熱狂を冷たい光で照らしだす。

もうひとつの新作「サンパウロ市民」は時同じく地球の裏側で「植民地」(同じ言葉だった)を築く日本人の物語だ。篠崎ならぬ寺崎文房具店の食卓には、相撲取りや写真花嫁といわれた新移民がやってくる。沖縄からきた移民が使用人となり、また夢破れ沖縄へ帰る人もいる。ラジオから戦況を告げるニュースが流れたかと思いきや、聞こえるのは音楽。そこで皆が輪になってサンバを踊る。初日のアフタートークに出演した作家の高橋源一郎に「寄席より面白いね」と言わせたシーンで、この日本人の無邪気さはおかしくもあり、空恐ろしくもある。そのあと、一同さっさと万歳してしまうのである。ここでも志賀廣太郎以下、役者の演技が粒だっている。

この舞台では一連の「ソウル市民」に出てくる逸話が似かよった形で用いられ、たとえば朝鮮人への偏見は沖縄へのそれに転じる。「ごっつぁんです」を繰りかえすユーモラスな相撲取りは「ソウル市民1919」にも出てくる。こうした手法は文学としてみれば同工異曲のそしりを受けるかもしれないが、役者が演じる舞台では、比較して眺めわたす興味をかきたてる。言葉の上では同じ「植民地」なのに、ソウルとサンパウロでは成り行きが正反対。一方は破滅的結果となって戦後も長く反日教育が施された。他方は成功者も多く出て、社会的尊敬を集める。この5部作は現代に直結する歴史を礼賛も全否定もせず、フラットに描写する。

開演前から舞台で人が立ったり座ったりするのは、この劇団の定法。現実の生活の時間と地続きに劇の時間が流れている。演技やセリフも、あくまで今風。観客にとっては、過去にタイムスリップして歴史を追体験する感覚がある。

タイトルはジェイムズ・ジョイスの「ダブリン市民」から引き、大家族の繁栄と没落という枠組みはトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人びと」と北杜夫の「楡家の人びと」から借りる。ちなみに印象的な相撲取りは「楡家の人びと」に出てくるキャラクターの転生とみられ、先日亡くなった作家へのオマージュでもあろう。

平田オリザは「ソウル市民」の初演で、同時多発的に会話したり、客席に背を向けたりする、おきて破りの演出を完成させた。自ら「世界で一番静かな演劇」と宣伝し、それがもとで「静かな演劇」と評されるようにもなった。イデオロギーに目を曇らされず、現実や歴史を冷徹に認識する劇の手法だった。それは観客の心をひどく孤独にさせる。平田オリザの芝居を見たくなるのは、生きていくために大切な孤独の味に触れたいときだ。

皮肉にも「静かな演劇」は世界が静かでないときに威力を発揮する。とすれば、このシリーズは書き継がれねばなるまい。

(編集委員 内田洋一)

12月4日まで、東京・吉祥寺シアター。演目は日替わりで、週末は複数本を上演。