アジア・インディペンデント映画のミューズの挑戦
東京国際映画祭リポート(4)
「杉野希妃って誰?」。アジアや中東の映画を紹介する「アジアの風」部門で、日本の女優兼プロデューサー、杉野希妃(すぎの・きき)の特集上映が組まれていたことに軽い驚きを覚えた。まだ20代の若さ、多くのキャリアを積んできたわけではない。出演した日本映画といえば、ケータイ小説が原作の「クリアネス」(篠原哲雄監督)と今年公開の「歓待」(深田晃司監督)ぐらいだ。
知る人ぞ知る存在と言ってもいい杉野が今回クローズアップされたのは、アジアのインディペンデント映画のミューズ(女神)としての顔だ。活動の拠点を日本に置きながら、韓国やマレーシアなどの新進映画人たちと組み、作品を次々に生み出している。出演するだけにとどまらず、自らプロデューサーを買って出て、それらの作品の制作に深くかかわっているのが面白い。
杉野は1984年、広島県で生まれた。中学時代に演劇を始め、宝塚歌劇団にあこがれた時期もあったそうだが、親から大学を勧められ進学。その後も女優志願は変わらず、「イ・チャンドン監督やキム・ギドク監督の作品で興味を持った韓国映画に出てみたい」という夢を胸に、慶応大学在学中の2005年に韓国留学した。間もなく現地のオーディションに合格し、翌年、オムニバス作品「まぶしい一日」の第1話「宝島」で女優デビューした経歴を持つ。
さらに海外とのつながりを広めたのは、マレーシアの女性監督、ヤスミン・アフマドとの出会いだった。アフマド監督の作品に初めて触れたのは06年の東京国際映画祭、少年少女の淡い恋を描いた「ムクシン」だった。しかも、たまたま見知らぬ人からもらったチケットで観賞したのだという。ところが「その繊細でみずみずしい映像に瞬く間に引き込まれた」。マレー系、中国系、インド系などの多民族国家マレーシアで育ち、祖母は日本人という出自を持つアフマド監督。その作品に垣間見える「民族のボーダーを超えようという姿勢」にも共鳴し、上映後の「わずか20~30分のティーチ・インだけで人間的な大きさを感じた」という。
翌年、出演映画のプロデューサーからアフマド監督が日本との合作映画を企画していると聞き、「出演したいし、プロデューサーもやりたい」と名乗りを上げた。その企画「ワスレナグサ」は、病に倒れたアフマド監督の急逝で完成することはなかったが、これを機に杉野のプロデューサー人生は始まった。「日本では役者って、受け身。でも海外に目を向けると役者がプロデューサーも監督もやるというケースは珍しくない。自分から発信してもいいと思った。それにみんなで一緒に作っているという感覚が強まってすてきだなぁと感じた」と話す。アフマド監督の急逝後も、マレーシアの映画人と親交を深め、それが今につながっている。
とはいえ、海外の映画人と渡り合う"つわもの"というイメージはない。ケラケラと元気良く笑い、時には「自分は情熱だけ。何も持っていない」とへこむ。垣根は低く、フットワークは軽い。飾り気がないのだ。
特集で上映された新作「大阪のうさぎたち」(韓国のイム・テヒョン監督)では主演兼プロデューサーをつとめた。人類最後の日、ただひとり生き残った女性を描いた作品だ。大阪で開催された映画祭に参加し、そのゲスト・ツアーでたまたま一緒になったイム監督と意気投合、その場で出演が決まり、即興的に撮影したという。
杉野は在日韓国人3世。日本で生まれ、「日本人であり、韓国人であり」という感覚で育ち、あまり国境を意識することはなかった。今は「世界の中のひとり」という意識だ。アジアやインディペンデントというくくりにもこだわらない。「ブルガリアの監督と一緒に映画を作ろうと話をしているんです」と楽しそうに笑う。
プロデューサーとして資金集めに奔走し、宣伝にも回る。「私は人と人のつながりでこれまでやってきた。映画祭はいろんな人たちと出会うチャンスでもあるんです」と言い、今回の映画祭期間中も会場を駆け回った。「将来は監督をやってみたい」と夢を語る。
(文化部 関原のり子)
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