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「三冠王」 定着の陰に伝説の強打者

2011/10/18

打率、本塁打、打点の打撃3タイトルを独り占めするプロ野球の「三冠王」。いつ誰が考え出した言葉なのかは分からなくても、きっかけを作った人物なら特定できます。打者最高の勲章を逃し続けた伝説の強打者を抜きに、この言葉は語れません。さらには、競馬の「三冠馬」も密接に関わってきます。
1958年、首位打者と本塁打王の二冠王となって表彰される中西太選手=共同

最も単純なのは、初代三冠王の誕生と前後して言葉も生まれたという考え方。まずは歴史をたどる必要があります。中島治康(巨人、故人)が史上初の三冠王となった1938年秋シーズン、この偉業は全く話題になりませんでした。当時は現在と違う2季制のため記録の統計方法が微妙(=春秋通算すべきか否か)だっただけでなく、「打撃3タイトルの独占に価値がある」という概念が乏しかったようです。「後世になって記録を整備したら、そうだったと分かった」と元パ・リーグ記録部長でプロ野球アナリストの千葉功さん。何せ11月17日付読売新聞は中島が今でいう最優秀選手(MVP)と首位打者の「二つの栄誉を一手に収めた」と触れたのみ。三冠王という言葉も生まれていません。

65年に野村克也(南海)が史上2人目の三冠王になると、戦後初の達成とあって大きな反響を呼びます。10月22日には日本経済新聞ほか全国紙各紙に「三冠王」の見出しが躍ったことから、この時点で一般化していたことがうかがえます。中島から野村まで27年もの間、誰も三冠王を成し得なかったのに、言葉が先に定着していたのは不思議に思えるかもしれません。この間の空白を埋める鍵を握る人物こそが、「怪童」こと中西太(西鉄)です。

■二冠王になること4度

53、55、56、58年と三冠王を逃すこと実に4度、しかもいずれも僅差。これだけ短期間で大記録への挑戦が繰り返されれば、ファンもマスコミも自然と記録への関心が高まるというもの。中西が広く知らしめたであろう「打撃3タイトルの独占の価値」、一体どう報じられたのでしょうか。当時の全国紙と野球専門誌「ベースボール・マガジン」(BM、現・週刊ベースボール)を調べてみると、53年は初の二冠王で注目度も低かったためかその記録に言及した記事は見つかりません。それが55、56年になると英語の「Triple crown」を片仮名書きした「トリプル・クラウン」のような例が多く見られるようになります(BM55年11月号など)。しかしこれでは字数が多い。中西の快挙が2度3度と持ち越される過程で、簡潔な日本語訳も考え出す必要に迫られたのは容易に想像できます。

中西は僅差で4度三冠王を逃した
打率本塁打打点備考
1953.314×36◎86◎岡本伊三美(南海)に4厘差
55.332◎35◎98×山内和弘(毎日)に1点差
56.325×29◎95◎豊田泰光(西鉄)に5毛差
58.314◎23◎84×葛城隆雄(大毎)に1点差

(注)◎はタイトル獲得、×は部門2位

いわく「打撃三賞」(55年12月1日付朝日新聞)、「トリプル冠」(BM57年10月号)、「三重勝」(BM58年3月号)――。苦心の跡が垣間見えるのは確かですが、いずれも珍訳で定着には至りませんでした。そんな中で登場したのがBM58年3月15日号の「首位打者から三冠王」の見出し。主要スポーツ紙を含めて調べられた範囲で最も古い、三冠王の用例です。開幕前に登場したこの言葉は、4度目の三冠王挑戦となったこの年のシーズン中、急速に普及します。閉幕した10月上旬、日経、読売、毎日新聞、産経新聞にもそろって使われているのです。

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