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奈良から京都、南北縦断「聖なるライン」に天皇陵・有力古墳 異説の日本史(2)

2011/8/17

大津宮 平安京 天智陵 長岡京 平城京 難波宮 難波宮 藤原京 菖蒲池古墳 天武・持統陵 天武・持統陵 中尾山古墳 中尾山古墳 高松塚古墳 高松塚古墳 文武陵 文武陵 キトラ古墳 文武陵
「実践 考古学GIS」(NTT出版)より

 前回は紀伊半島を横切る北緯34度32分の線上に太陽祭祀(さいし)の古代遺跡が並ぶという「太陽の道」説を追った。大和盆地にはそれに匹敵する南北のラインの存在も指摘されている。「聖なるライン」だ。

■7~8世紀の有力者の古墳が線上に

 始まりは1970年、岸俊男・京都大学教授(当時)が天武・持統合葬陵(奈良県明日香村)は「藤原宮中軸線の南方延長上に位置する」と指摘したことだった。41代持統天皇(40代天武天皇の皇后)在位中の694年、飛鳥京から北へ3キロほどの藤原京(奈良県橿原市)に遷都した。条坊制度を採用した碁盤の目状の都だ。

 耳成、畝傍、天香具山の「大和三山」に囲まれ、大極殿などが集まる藤原宮の真ん中を朱雀大路が南北に貫いていた。そのラインに天武・持統陵がのっているというのだ。藤原宮の大極殿跡から天武・持統合葬陵までは3.7キロ余りある。

 このラインをさらに南に延ばすと、42代文武天皇(天武・持統天皇の孫)陵、中尾山古墳(真の文武陵との説が強い)、極彩色壁画で有名な高松塚古墳やキトラ古墳など、7世紀後半から8世紀初めの最上層の人々を埋葬した古墳が絡んでくる。それで「聖なるライン」と呼ばれるようになった。



■58キロ先には天智陵

 「聖なるライン」は1998年、「日本歴史 602号」(日本歴史学会編、吉川弘文館)所載の論文「天智陵の営造と律令国家の先帝意識」(藤堂かほる)を機に、大きく延長されることになった。38代天智天皇陵は「藤原宮中軸線の真北に位置している」と指摘されたのだ。

 天智天皇は天武天皇の兄、持統天皇の父で、近江大津宮(大津市)に都を置いた。天智陵があるのは京都市山科区。天武・持統陵から、実に58キロ余りも北に離れている。

 試しに電子地図で藤原宮の中軸線をたどって北へ北へとスクロールしてみる。8世紀初めに権勢をふるった藤原不比等の邸宅跡とされる海竜王寺(奈良市)の東を抜け、ウワナベ・コナベ古墳(奈良市にある2つ並んだ前方後円墳)の間を通り、京都府宇治市の世界遺産・平等院の境内を意味深長に貫き、見事に山科の天智天皇陵に行き当たる。

 律令国家の基礎を築いた天智、天武・持統、文武陵などが60キロ離れても同じ経線上にあるとわかり、「太陽の道」と同じような興奮を覚えた歴史ファンは少なくなかっただろう。

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