隅田川花火・仙台七夕…夏祭りの起源は災害 鎮魂担う

2011/6/23

歴史博士

夏祭りのシーズンはもうすぐ。暑さを吹き飛ばそうと華やかなイベントが各地で連日催され、若者から年配者まで多くの人々でにぎわうが、今年は東日本大震災の影響で規模を縮小したり、中止したりするケースが相次いでいる。豊作を祝う秋祭りとは異なり夏祭りには死者を供養し災いを鎮める慰霊、鎮魂の意味合いも強い。各地の由来を追った。

隅田川の花火、大飢饉がきっかけ

大輪の花が夜空を彩る隅田川の花火大会

毎年100万人近い人出でにぎわう「隅田川花火大会」は江戸時代から昭和までは「両国の川開き」として親しまれてきた。その始まりは享保18年(1733年)にまで遡る。この時、約20発の花火が打ち上げられたという。

実はこの前年の享保17年、西日本を中心に「享保の大飢饉(ききん)」が起こった。さらに江戸でもコレラとみられる疫病が流行した。当時の徳川将軍は8代吉宗。前年の飢饉による死者の慰霊と鎮魂を目的として、水神祭を催したのがきっかけだった。

花火の打ち上げは6代目鍵屋弥兵衛が担当した。鍵屋は17世紀半ばに江戸で開業し今日まで続く花火製造店。その後分家「玉屋」と競い合うようになり「かぎや~」「たまや~」の掛け声の由来となったという。旧暦5月28日が川開きの定例日となり、江戸の夏の風物詩となった。

災害のエキスパート、吉宗

徳川御三家から初の将軍となり「享保の改革」で知られる徳川吉宗だが、災害対策のエキスパートでもあった。

紀州藩主時代の宝永4年(1707年)には東海・南海・東南海連動型の「宝永の大地震」が起こり、紀伊半島沿岸は津波被害にも見舞われた。復興と財政立て直しに手腕を振るい、江戸でも「名君」と評判が立ったことが将軍候補となる一因にもなったようだ。飢饉対策に甘藷(かんしょ)栽培の奨励なども手がけている。

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