パウル・クレー、波乱に富んだ生涯

1879年 12月18日、スイス・ベルン近郊で生を受ける。父親のハンス・クレーはドイツ人の音楽教育者、母親のイーダはスイス人の声楽家だった。クレーの生まれはスイスだが、国籍はドイツ。第1次大戦ではドイツ軍の徴兵を受けた。

アトリエのパウル・クレー、バウハウス・ヴァイマール(1922年、撮影=フェリックス・クレー、パウル・クレー・センター蔵、写真提供=ZPK、NFK)

1886年 7歳でバイオリンを習い始めた。

1890年 11歳の時にベルン市管弦楽団の非常勤団員に。何という早熟ぶりだろう。

1898年 絵の勉強のためにドイツのミュンヘンに移り住む。

1899年 後に妻となるリリー・シュトンプと出会った。

1900年 ようやくミュンヘンの美術学校に合格したが、翌年あっさり退学した。音楽では伝統的なバッハやモーツァルトを好んだと伝えられるが、美術では初めから進取の気性に富んでいたようだ。

1910年 ベルンで初めて個展を開く。

1912年 カンディンスキーらが主宰したミュンヘンの「青騎士」展に参加。クレー一家は、カンディンスキーの家のすぐ近くに住んでおり、家族ぐるみのつき合いだった。

1914年 チュニジアに旅をして、鮮烈な印象を日記に書きつづる。第1次大戦勃発。

1916年 親友だった画家のフランツ・マルクが戦死。クレーも、この年に徴兵を受けた。

「思索する芸術家」(1919年、26.1×17.9センチ、紙に油彩転写、厚紙に貼り付け、ベルン美術館蔵)

1920年 ミュンヘンで大きな個展。40歳を過ぎて、ようやく世間に評価されるようになった。遅咲きの春。

1921年 ドイツ・ヴァイマールの総合美術学校バウハウスの教師として招かれる。厳しい先生だったらしい。

1931年 バウハウスを辞め、ドイツ・デュッセルドルフの美術学校で教べんを執る。

1933年 政権を取ったナチスからユダヤ系との疑いをかけられ、年末にスイスに亡命。

1935年 晩年苦しんだ皮膚硬化症の兆候が現れる。バイオリンの演奏もこの頃からしていない。作品制作点数はどんどん減っていく。

1937年 ドイツで「退廃芸術」の烙印(らくいん)を押され、102点の作品が没収された。

1939年 様々な苦難にあらがうかのように、生涯最多の1253点を制作。

1940年 病状が悪化して5月に死去。

遅咲きの春、第1次大戦で友を失った悲しみ、ナチスの迫害による亡命、病気に苦しんだ末の死去と、クレーの波乱に富んだ生涯は、不幸の歴史のようにも見える。しかし、パウル・クレー・センターのミヒャエル・バウムガルトナー美術部門長が語った次の言葉はもう一つの真実を表している。

「演奏家として一流の腕を身につけ、リリーというよき妻に巡り合い、何よりも絵の上で自分がやりたい表現を次々に実現していった。クレーは幸せな人生を送ったに違いない」

展覧会名 パウル・クレー展―おわらないアトリエ
PAUL KLEE: Art in the Making 1883-1940
会 期 2011年5月31日(火)~7月31日(日)
会 場 東京国立近代美術館(東京都千代田区北の丸公園3-1)
観覧料 一般1500円、大学生1100円、高校生700円
開館時間 午前10時~午後5時(6月の金、土曜日は午後6時まで開館。入館は閉館の30分前まで)
休館日 月曜日(ただし7月18日[月・祝]は開館

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