旅行・レジャー

耳寄りな話題

大阪、なぜ上が「東」方角?

2011/4/1

取材の準備で調べものをしていた際、ふと目に留まった江戸時代の大阪の古地図。方角の北を上にしている見慣れた現代地図と違い、東西が上下、南北が左右に配置されている。まるで城下に、にらみを利かすかのように上部に描かれた大阪城。周囲には方角や「上」の文字付きの地名が目立つ。町の生い立ちや発展の歴史と関係があるのだろうか。時空を超えた“探検”の旅に出た。

大阪のシンボルの一つになっているイチョウ並木の御堂筋や堺筋、谷町筋――。大阪の市街地を貫いている大動脈を通ると、現在の都市の中心軸は南北方向に走っていると実感できる。一方、文献などによると、江戸時代には東西方向に町は広がって、発展を続けていたとされる。

町の区画割りに明確な痕跡が残っている。江戸期から大阪の中心地だった船場(今の大阪市中央区にあたる地域)。このほか、北浜の南側に位置する平野町(ひらのまち)や市営地下鉄堺筋本町駅付近の安土町(あづちまち)、天満橋駅に近い釣鐘町(つりがねちょう)などは、いずれも東西の通りに長く面した細長い区画となっているのが特徴だ。

近代以降、一般的になった正方形や長方形に近い区画とは対照的な姿。時計の針を戻して、時間を遡ったような気分になったが、大阪の町の変遷に詳しい大阪城天守閣の研究副主幹、北川央さん(49)が、とっておきの歴史の秘話を教えてくれた。

「大阪城を築城した豊臣秀吉が描いた当初の都市計画では、南北を中心軸にするはずだったんですよ」

北川さんによると、秀吉は大阪城を、支配する一帯の最北端に置き、四天王寺からさらに南下し、国内有数の港だった堺につなぐ南北に広がる都市づくりの計画を持っていた。

1583年に大阪城の建設を開始したが、96年に起きた「慶長の大地震」によって堺の町は深刻な被害を受けた。このため、新たな港を整備する必要性が生じたという。

開発地域として、白羽の矢が立ったのは城の西側に広がっていた低湿地帯だった。一帯を埋め立てる土木工事を施し、2年後の98年、船着き場の「船場」が完成した。

旅行・レジャー 新着記事

ALL CHANNEL