2011/1/5

クローズアップ

明治時代に「町長」決断

町史などの文献を調べてみると、干支を地域区分に使い始めたのは明治時代から。決断したのは現在でいえば町長にあたる戸長の古川定明(さだはる)という人物だった。それまで北方町では戸籍や徴税に用いる「門(かど)」という地域区分制度を敷いていた。明治時代に入り、全国的に大字、小字という表記が広まったが、北方町は昔から面積が広大で、当時すでに1万9000筆(区域)と筆数も膨大だった。将来の分筆を考えると大字、小字と細かく表記していたら事務処理もままならなくなる。

そこで古川は大字、小字に代わる十二支を導入した。彼の祖先は延岡藩の「天文測量方」で、本人も天文学に優れた知識を持っていたという。中国伝来の干支は暦や時刻、方角を表すのに使われ、天文学と深い関わりがあった。古川は潔癖な性格だったと伝えられており、十二支を使い、時計回りできちんと区分けしようと考えたのだろう。

実際に利用されたのは1882年3月。地券を村民に配布する時、地域ごとに十二支を使った朱印で押印したという。1889年の町村制施行で正式に地名となり、町ではこの年をもって使用開始とした。戸長役場が置かれた場所を「子」とし、ほぼ時計回りに「丑」「寅」と続き、「亥(い)」で終わる。ちなみに現在の延岡市北方町総合支所は今年の干支の「卯」にある。

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