北に北さん、東に東さん、南に南さん…「名字のミステリースポット」を歩く
編集委員 小林明
名字研究家の間で有名な場所がある。
石川県能美市下開発町(しもかいはつまち)――。
実は、そこに住む人たちの名字は驚くべきことに、北に住んでいる人は「北さん」、東に住んでいる人は「東さん」、南に住んでいる人は「南さん」、西に住んでいる人は「西さん」という名字なのだそうだ。おまけに、集落の中央部に住む人は「中さん」という名字だという。
つまり、名字を聞けば、集落のどこに住んでいるかが直ちに分かるというわけ。
どうして、そうなったのだろうか?
「これは実際に足を運び、確かめてみなければなるまい」。そう思い立ち、石川県能美市下開発町を訪ねることにした。
2010年12月下旬。羽田空港から石川県の小松空港に降り立った筆者は、タクシーで能美市下開発町に向かった。鉛色の空はあいにくみぞれ交じりの雨。日本海から吹き付ける寒風に思わず身をすくめる。
車窓の外を見ると、稲刈り後の水田が見渡す限り延々と広がっている。都会に比べたら空がとても大きい。この辺りは霊峰白山から流れる豊富な清流と肥よくな土に恵まれた北陸屈指の米所だ。勤勉な農民がコツコツと米作に精を出し、「加賀百万石」の繁栄を支えたことでも知られる。
30分ほどタクシーを走らせると、今回の目的地である下開発町が見えてきた。だだっ広い田んぼの中にポツンと島のように浮かんだ小集落である。総数は60世帯。5分もあれば、町の端から端まで歩けてしまえる大きさだ。
取材を開始する。まず集落の北西に位置する八幡神社から散策を始めてみた。しばらく歩くと、我が目を疑った。北卓、北謙二、北勝雄、北秀雄、北幸帰、北知慎、北重盛、北建一……。左手に続く北部ゾーンの表札は、なんと、「北さん」ばかりではないか!
続いて集落の東部に差し掛かると、右手のゾーンは東さんばかりになる。東孝治、東章、東潤一、東正芳、東文治、東良雄、東寛次……。これだけ「東さん」の表札が並ぶと壮観な眺めだ。
やがて通りを南下し、西に向かうと今度は「南さん」ゾーン。表札を見ると、南郁夫、南敏夫、南和麿、南茂樹、南清明、南康博、南俊宏……。なるほど、「南さん」が集中している。
さらに集落の中央部に入ると、今度は「中さん」ばかり。中庄一、中正章、中雄二、中昌之、中良一……。最後に出発地点の神社の周辺を少し歩き回ったところ、「西さん」という表札がパラパラと見えてきた。西一豊、西俊秀、西秀則……。
「うーん。見事と言うしかない」。この町では、紛れもなく、住んでいる場所に従って名字がはっきりと区別されているのだ(図1)。何だか「おとぎの世界」に足を踏み入れたような不思議な気持ちになってくる。
どうしてこうなったのだろうか?
取材を進めるうちに、興味深い歴史が隠されていることが分かってきた。
時計の針を1875年(明治8年)に巻き戻してみよう。
この年、戸籍整備による社会近代化を進めるために、明治政府は「平民苗字(名字)必称義務令」を出して名字を義務化した。その際、下開発町では「どんな名字を付けたらいいのか」と困った農民たちが、こぞって庄屋さんのところに相談に行ったそうだ。
「それじゃ、住んでいる場所ごとに『東西南北中』と付けたらどうだろう……」
集落の話し合いでこんなアイデアが出され、「それがいい」と農民も承知したらしい。こうして、北に住む人は「北さん」、東に住む人は「東さん」、南に住む人は「南さん」、西に住む人は「西さん」、中央に住む人は「中さん」と名乗るようになったというわけ。
図2はそのイメージ図である。
ちなみに、庄屋さん自身は「杉の木のたもとに住んでいたから『杉本』と名乗ったらしい」。庄屋さんの子孫で、現在も下開発町の八幡神社の隣に住む杉本朝子さんはこう話す。
その後、住民が本家から分家して引っ越したり、新規の住民も流入したりして、東西南北中の区分けは多少崩れたが、大きな開発の波にさらされることもなく、大半が1875年当初の状態を保ったまま現在まで残ったそうだ。
「同じ集落で場所ごとにこれだけ明確に名字が分かれ、それがきれいに残っている事例は全国でも珍しい」と能美市立博物館学芸員の北村周士さんはみる。
実は、この"一糸乱れぬ統制"を可能にしたのが、加賀藩で独自に構築された支配制度「十村(とむら)制」(図3)だったとされる。
北村さんによると、かつて加賀は伊勢、三河などと並んで浄土真宗(一向宗)信仰が盛んな地域で、農民の団結心が強かった。一向一揆により守護大名の富樫氏を打倒するほどの勢いがあったそうだ。そのため、戦国時代には天下統一を目指す織田信長らの勢力から大量虐殺などの激烈な弾圧を受けたという。
だが、江戸時代になると、加賀藩はこの農民たちの結束心や統率組織を逆にうまく利用して、「加賀百万石」の繁栄を成立させる統治につなげた。その骨格になったのが領内各地の豪農を「十村」に任命するという統治システムだった。
「藩―十村―肝いり(庄屋)―組合頭―農民」という地域に浸透した強固なピラミッド構造は、それまで圧政を強いてきた領主への憎しみを抑え込み、さらに農民自身の自発的な勤労意欲や団結心を高揚するのに役立った。「その結果、江戸期以降、農民による目立った一揆や反乱は見られなくなった」と北村さんは指摘する。
こうした「何かあったら庄屋さんに相談し、皆で一緒に行動する」という歴史風土が、世にも珍しい「名字のミステリースポット」を生み出す下地になったというわけだ。(ちなみに下開発町の旧庄屋だった杉本さんは「十村制」の構造の中では「肝いり」にあたるそうだ)
今でも、下開発町は結束が固い。住民同士が寄り添い、助け合う共同体だ。
たとえば、町には万雑(まんぞう)と呼ばれる町会費があり、各家の年収や資産の水準に応じた額(年平均2万5000円程度)を町民から徴収している。「その町会費を積み立て、神社や町の街灯などを修繕したり、道路を拡幅するために水路を地下通水路にしたりしている」と元町会長の南康博さんは説明する。
たしかに60世帯の小さな集落だが、八幡神社も道路も立派に整備されているし、公民館にあたる近代的なコミュニティー施設や遊具施設、さらにはお墓などもすぐ目と鼻の先にきちんと整備されている。住み心地はとても良さそうだ。
「下開発町の世帯数は決して減少していない。むしろ過去に比べて徐々に増えてきている」と南康博さん。最近は少子高齢化や地方の過疎化などが問題化しているが、ここでは伝統的な共同体がしっかりと根を張っているわけだ。
とはいえ、同じ名字が多くて日常生活に不便はないのだろうか?
面白い資料をお見せしよう。
表4は下開発町で結成したソフトボールチームの選手名簿(1996年度)である。
20人のうち、北さんは6人、東さんは6人、南さんは5人、西さんは1人、中さんは2人。東西南北中の名字だけで構成されている。名字だけでは誰が誰だかまったく判別できず、選手も審判も対戦相手も観客もさぞかし戸惑ったに違いない。
このほか、団塊の世代に属する町会長の東潤一さんは「私の子ども時代には、町に東西南北中の名字の同級生が12人もいた」と振り返る。「東さん」と呼ばれても何人もいるわけだから、「仲間内では名字ではなく、必ず下の名前やあだ名で呼び合う習慣が自然に身についた」という。
日常生活でもささいな混乱はあるようだ。
たとえば、「北洋子」さんは義理の親子同士(義理の母と嫁)で同姓同名である。「中英子」さんも町内には2人いる。また「中芳」さんは夫婦で同姓同名だったという。お嫁さんが他家から嫁いできた時などには、そんなことがどうしても起きてしまう。
こうした事情もあり、下開発町は郵便局でも「配達員泣かせ」として知られる。配達員がどんなに地域に精通していても、郵便物が時折、間違って届いてしまうのは防ぎようがない。
ただ、同じ名字の人がこれだけ多いのに大きな問題にならないのは、「各家に『屋号』と呼ばれる別の呼び名があるからだ」と東潤一さんは話す。昔から、住民同士を屋号で呼ぶ習わしがあるのだ。
どんな屋号があるのだろうか。
下開発町の屋号の種類を示したのが表5である。(資料は東潤一さんが提供)
たとえば、町会長の東潤一さんの家は「ナカショテデ」、元町会長の南康博さんの家は「ロクリョモン」が屋号となる。名字と違い、町内で同じ屋号はひとつもない。「トウキョウ」「マンシュウ」など地名が由来の屋号も見られる。
こうした屋号は日常の会話で頻繁に飛び交っており、特に年齢が高い層ほど使う頻度が高いそうだ。(蛇足だが、屋号によく見られる「ショテデ」は「所帯出(しょたいで)」のことで、本家から分家したことを指す言葉だという)
こうして、屋号は明治以前の時代から使われ、呼称としてしっかり機能していた。だから、1875年(明治8年)に名字が義務付けられた際、下開発町の住民がこぞって「東西南北中」のような名字を付けても困るとはまったく思わなかったようだ。
今では、町に嫁いできたお嫁さんや養子に来た人たちのため、町内の各家の屋号を地図にまとめて保存している。屋号を覚えなかったら、日常生活が不便で仕方がないからだ。ちなみに、屋号の地図を見ているだけでも、本家から分家するなど町民の住居の移動の様子がうかがえる。研究によると、分家によって、住居が町の南や東の方向へ移動する傾向があるらしい。
東、西、南、北、中さん――。
名字にまつわる郷土史を研究していた白江勉さんは著作「名字のふるさと」の中で「石川県の名字の特徴は方位姓がたいへん多いことで、中でも(下開発町がある地域の)東・西・南・北さんの集中密度はおそらく日本一であろう」と指摘している。
今回の現地ルポで「名字のミステリースポット」である石川県能美市下開発町のユニークな名字の分布やその背後に隠された歴史が明らかになった。今となっては、こうした下開発町の成り立ちや構造そのものが、貴重な歴史遺産だといえるのかもしれない。
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