田原の革新性は、客観、公平、中立というドキュメンタリーの常識を覆し、被写体と積極的にかかわる手法を打ち出したことにある。何がそうさせたのか。
僕は最初、岩波映画に入ってテレビに移ったが、すぐに客観的報道なんてあり得ないと思った。なぜかというと、僕らがテレビ番組を撮っていたのはちょうど学生運動の時代。学生と機動隊がぶつかっているときに、どちらにカメラを置くのかは、考えなければいけない問題だった。学生の側からカメラを回したら、頑丈な体つきの人間がヘルメットかぶってガス弾をぶっ放しながらやってくる。「これは権力の暴力装置だ、けしからん」という話になった。ところが機動隊の後ろ側から撮れば、覆面にヘルメットでゲバ棒持った学生が、石投げながらばーっと襲ってくる映像になって「あれは、過激派暴力集団だ」となる。つまり、撮る位置によって事実の見え方はどうにでも変わってしまうとわかった。
典型例が成田空港を造るときの三里塚闘争だった。成田空港を造る側と反対する農民たちとが対立してるわけね。最初はテレビのカメラも新聞も、農民の側から撮っていた。すると空港公団の後ろには機動隊員、つまり「権力の暴力装置」がいる。あいつら強引に三里塚の農民たちを押しのけて空港を造ろうとしている、と見えた。当然ながら、テレビも新聞も農民側に立った。もちろん世論も。
ところがだんだん機動隊が強くなってきた。ガス弾をぼんぼんぶっ放す。危ない。危ないから今度はテレビのカメラも新聞もみんな機動隊の側に移った。身の安全のために強い方から撮るようになった。すると、農民の後ろに過激派暴力集団が見えてきた。これは農民じゃなくて、武装農民じゃないかという話に変わってきた。
そうなると、今度は世論が変わる。最初は「機動隊、空港公団けしからん」だったのが、だんだん「過激派暴力集団と一体になった農民はけしからん、空港を造るべきだ」と。そうやって世論がマスコミに作られる様を見るうちに、僕は客観的報道なんてない、結局どこから撮るかが大事なんだと思うようになった。
「客観的報道」を捨てた田原が提唱、実践したのが「かかわりのドキュメンタリー」だった。
対象の側に立って撮るしかないのであれば、その対象と徹底的に深くかかわること。ドキュメンタリーの行く道はこれしかないと考えた。それにはまずこちらが裸になる。裸になって全部さらけ出せば、相手もこちらを信用して裸になってくれる。本音と本音のかかわりになる。だから隠し撮りや望遠レンズを使った撮影は卑怯(ひきょう)な方法で、やっちゃいけない。相手に対する裏切り行為だ。僕は常にカメラもマイクも堂々と出して撮った。方法としては「土俵」、つまりある状況を作り出して、そこに対象を上げる、というやり方をした。相撲取りが最も真剣な表情をするのは、土俵の上で勝負してるときだからだ。その土俵は僕が作る。そして取材対象を上げて相撲を取るように仕向ける。取りくむ相手はカメラの後ろにいる僕だ。