岡井隆の春の歌一口短歌講座 春の潮騒

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(おおつじ・たかひろ)1960年三重県生まれ。龍谷大大学院文学研究科修了。現代歌人協会会員。三重県立松阪高校教諭

今回の「耳を澄まして」では、岡井隆の春の歌が取り上げられていました。

岡井隆は現代短歌を牽引(けんいん)する歌人です。彼は春が好きらしく、印象的な春の歌を数多く作っています。

    玄海の春の潮(うしほ)のはぐくみしいろくづを売る声はさすらふ

「ホメロスを読まばや」の歌と同時期に作られた歌です。「いろくづ」とは魚のこと。早春の頃、玄界灘の冷たい潮の流れによって、魚たちの身は引き締まります。その魚を行商の女性が売りにきたのでしょう。

「魚いらんかね~」という声が、戸口に響き、それが街中をあてどなくさすらってゆきます。その声を聞きながら、岡井隆もまたあてどない流離の思いを噛み締めるのです。

四十代の頃、岡井は東京を去り、九州に仮寓していました。早春の光と、潮の匂(にお)い。凛(りん)とした明るさのなかで、当てもなくさ迷ってゆく自分……。溢(あふ)れる光のなかの孤愁、といった気分が漂ってくる歌です。

    歳月はさぶしき乳を頒(わか)てども復(ま)た春は来ぬ花をかかげて

調べが美しい歌です。上句の「さ」の音の響き、下句のア行音の響きが美しく、耳に伝わってきます。

歳月というものは、私たちに「乳」を分け与えてくれます。思い出とか、体験とかいったものがそれでしょう。が、その「乳」は決して甘いばかりではありません。そのなかには寂しく苦い味の「乳」もあったはずです。

私が生きてきた歳月というものは、私に苦味を含んだ「さぶしき乳」を分け与えてくれた。私は、その苦味を充分に味わった。が、そのような私の苦痛にも関わらず、春は再び私に訪れて来る。美しい花々とともに‥‥。意味は難解ですが、あえていうなら、この歌はそのような人生への思いを述べた歌なのかもしれません。

ほかにもこんな歌があります。

    今日一日(ひとひ)天(あめ)の変化のはげしさやこころをさらふ春のさきぶれ

    乳房のあひだのたにとたれかいふ奈落もはるの香にみちながら

どちらも少し難しい歌ですが、調べの柔らかさが魅惑的な歌だといえるでしょう。

岡井隆は、春の歌人なのかもしれません。

(大辻 隆弘)

「初めての俳句・短歌」では、日本経済新聞土曜夕刊の連載「耳を澄まして あの歌この句」(社会面)に連動して、毎回、季節に合った写真に短歌や俳句を添えます。歌人の大辻隆弘さんと、俳人の高田正子さんが歌や句の背景、技法についてわかりやすく解説します。
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