本土との交通手段なく 薬届かず医師・山本馨さん(2)気仙沼の離島でへき地医療

東日本大震災当日、津波に巻き込まれた後に死亡した2人の高齢女性のほかには、宮城県気仙沼市の離島、大島にある私の診療所を訪れた急患はありませんでした。遺体は家族に引き取られ、私は余震に備え、再び妻と駐車場の車の中で過ごしました。

宮城県気仙沼市の離島でただ一人の医師として震災後も診療を続ける山本馨医師

震災で情報網は寸断され、島の被災状況はまったく分かりません。何人くらいが負傷しているのかも見当もつきません。ただ、診療所の建物は無事だったので「いつも通り診療所を開けよう」とだけ決め、その夜はわずかな仮眠をとりました。

翌朝、震災で倒れた棚や、床に散乱したカルテを元に戻して診療所を開けると、思いもかけない光景が目に飛び込んできました。けが人が運び込まれてくるのかと思いきや、家族に付き添われた高齢者ばかり約20人が整然と並んでいたのです。

大半が高血圧や糖尿病など持病を抱え、津波で自宅とともに薬も流されたということでした。被災後の慢性疾患対応という全く想定していない事態でしたが、運良く私の診療所はもともと高齢者の患者が多く、血圧降下剤や血糖降下剤の在庫は豊富でした。

津波で島と本土を結ぶ唯一の交通機関のフェリーが被災し、島は孤立した。

ただ、震災で島と本土を結ぶ唯一の交通手段のフェリーが被災して使えません。通信手段もなく助けを求めることもできず、いつ消防や自衛隊の救助活動が始まるかも分かりません。私は10日間は島の孤立状態が続くと覚悟を決め、普段は2週間~1カ月分としている薬の処方量を1人4日分ずつに抑えました。

震災翌日は通常の2倍以上の120人が診療所を訪れました。患者の多くはショックのあまり放心状態で、とても震災のことを聞ける様子ではありませんでした。普段は患者同士の会話でにぎわう待合室も、この日ばかりは水を打ったように静まりかえっていました。

初めて私の診療所を訪れる人もたくさんいました。普段はフェリーで市立気仙沼病院など本土の大きな病院に通院していたそうです。離島医療を支えようと思って大島に来た私ですが、少しばかり複雑な気持ちでした。

その後も連日100人以上の患者が診療所に来ました。薬の在庫は予想以上のスピードでみるみる減っていきましたが、私は診療だけで手いっぱい。通信手段もない中、ひたすら救援部隊を待つしかありませんでした。

在庫が底をつきかけた震災から5日目のことです。誰かが診療所のことを伝えてくれたのでしょう。「国境なき医師団」の日本人の女性医師が診療所にやってきました。「高血圧や糖尿病の薬が足りない」と訴えると、翌日には自衛隊のヘリコプターで段ボール箱2箱分の薬が届きました。

直後から小型船による本土からの物資輸送も本格化。1週間たつと災害医療ボランティアによる島の各避難所での医療活動も始まり、徐々に診療所も落ち着きを取り戻し始めました。

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山本馨(やまもと・かおる) 1945年福島県二本松市生まれ。71年東北大医学部卒業後、福島県内や北海道内の病院勤務などを経て、99年に北海道倶知安町に「山本内科消化器医院」を開業する。2007年から無医地区だった宮城県気仙沼市の離島、大島に移り住み、「大島医院」で島民の診療に当たる。現在、妻と2人暮らし。

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へき地医療、医師の偏在、医療事故――。「医人たちの挑戦」は、転換期にある日本の医療現場で逆境に立ち向かう人の姿を隔週で紹介するコラムです。医師や患者ら6人の筆者が、それぞれの体験を通して日本の医療の今をつづります。

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