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晴れてトヨタに入社した。

都会から田舎に引っ越して、初めは違和感がありました。寮は確かにきれいでしたが、近くには食べるところも飲みに行くところも何もありませんでした。1966年入社の同期は180人ぐらいだったと思います。技術系が120人。事務系が60人。当時は今と違って全員の顔と名前が覚えられる規模でした。

歓迎会はジンギスカン鍋(左端が筆者)

歓迎会はジンギスカン鍋(左端が筆者)

研修はまず座学が1カ月。学生気分が抜けず居眠りするのを我慢するのが大変でした。それが終わると2カ月間、現場に出ての作業実習が始まりました。朝から晩まで工場の中で立ち仕事。慣れるまではつらかったですね。それでも声をかけてもらったり、現場の人たちの温かさに触れることができました。

研修が終わると、今度は配属決めです。事前に希望部署を書面で申請する機会があり、当然私は第1志望に「エンジン設計」、第2も第3も「エンジン設計」と書きました。行きたくないところも書いておけというのでそこには「製造現場」を。だからでしょうか。7月の本配属の日、会社から言われた職場は「元町工場(豊田市)機械部技術員室」。現場の担当でした。

希望しない部署に回され最初は落ち込んだ。

現場の技術員室というのは当時常務だった大野耐一さんがつくった組織で、製造現場に学校出のエンジニアを入れて現場の困りごとを解決しながら次なるステップアップを図る。そんな狙いがあったようです。設計部門でなかったのはショックでしたが、もはやじたばたしても始まりません。

ただ、大野さんや鈴村喜久男さんの厳しい指導は有名で、研修中の私の耳にも漏れ伝わっていました。特に本社工場(豊田市)と上郷工場(同)は「大野・鈴村旋風」が吹き荒れているとのこと。元町配属ということで難は逃れたのかなと、ひとまずほっとしたのを今でも覚えています。

配属初日は皆でジンギスカン鍋を囲む歓迎会をしてもらいました。緊張も解け、ついいつもの癖で私が鍋の肉を箸で押さえていると当時係長だった島和男さんが「おまえ兄弟多いか」と声をかけてくれました。「4人です」と答えたら「そうか。俺は5人だ。今日は君の会だから誰も取らん。押さえなくていいぞ」。さすが戦後の食糧難を経験した先輩です。とたんに場が和やかになりました。

しかしながら"優しい先輩ばかりの職場"という淡い期待は翌日にはすぐ打ち砕かれました。島さんはじめ上司は何も指示してくれない。こちらが「仕事って、何をすればいいのですか」と尋ねても「そんなものは、自分で探してこい」と言われるだけ。机はあるが、座っていると怒られる。現場に出ればどこに行っていたと怒られる。大野学校の始まりです。

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