ひらめきブックレビュー

アップルのジョブズが愛した禅僧 破天荒な生き様とは 『宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』

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スティーブ・ジョブズの成功を後押しし、アップルの設計思想に影響を与えたとされる禅僧をご存じだろうか。名を乙川弘文という。ジョブズが20歳の頃から深い信頼を寄せ、弘文が急逝したときにはさめざめと泣いたらしい。だが、ジョブズのように心酔する者もいれば、「僧侶らしくない」と毛嫌いする関係者もおり、実に謎の多い人物であるようだ。

本書『宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』は、そんな弘文の素顔に迫ったルポルタージュ。日米欧の宗教家、シリコンバレーの住人、遺された家族など、弘文に縁のある30名に7年がかりで取材し、得られた証言が収められている。証言の食い違いを解き明かして弘文の実像に迫る様は推理小説のようだ。著者の柳田由紀子氏は在米のジャーナリストで、ジョブズと弘文の交流を描いた『ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ』(集英社インターナショナル)を翻訳した縁で弘文に惹きつけられたという。

■ヒッピー文化の洗礼

弘文は1938年に禅宗(曹洞宗)の名刹に生まれ、大本山永平寺の幹部候補生として仏道を歩む神経質で優秀な青年だった。29歳で米国の禅道場から乞われたときは、仏教を広める意欲に燃えていたようだ。

だが弘文が渡米した当時(1960年代)の米国は、ドラッグ、フリーセックスなどなんでもありのカウンターカルチャー全盛期。禅に傾倒したのはヒッピーやジャンキーだった。そしてエキゾチックな禅僧を女性の修行者が追いかけるありさまだったという。そのうち弘文は取り巻きの1人と交際するようになる。「一生不犯を通す」(異性と交わらない)と誓った弘文だったが、米国のカルチャーに流されてしまったのか。

著者は「流された」のでなく自ら「流れた」のだと読み解く。根拠は、女性と別れた後、1カ月も山小屋に籠もり、人との接触を断った「弘文引きこもり事件」だ。この引きこもり事件の後、結婚したり、酒へ依存したりするなど、日本での弘文とは「反転」するような生き方を選ぶようになった。なぜ引きこもったのかは定かではないが、この事件こそ、弘文の人生上重要な意味があったのではないかと著者は推測する。

■あるがままに受け入れる

弘文は山小屋でこう考えたのではないか。様式化された伝統的な禅にこだわっていては、米国の人々には通じない。日本で思い描いていたきれいごとでは、混沌とした目の前の現実を救えない。これまで抱いてきた価値観と自我を手放し、米国の風じんに身を任せよう、と。

新しいものの見方に目覚め、人生観が転換する体験を仏教用語で「転依」(てんね)というそうだ。弘文は山小屋で転依を経た。弘文と修業をともにした永平寺の高僧などの証言をもとに、著者はこう結論付けるのである。

ジョブズも、アップルを追放されていた時代に、他人の意見を拒否するスタイルから、自分を取り囲む世界をそのまま認めるスタイルへと転換したことが知られている。自分のこだわりを捨て、外の世界をあるがままに受け入れる。弘文とジョブズ、お互いを結び付けていたのは転依に向かう極端な、純粋な魂だったのかもしれない。

今回の評者 = 戎橋昌之
情報工場エディター。元官僚で、現在は官公庁向けコンサルタントとして働く傍ら、8万人超のビジネスパーソンをユーザーに持つ書籍ダイジェストサービス「SERENDIP」のエディターとしても活動。大阪府出身。東大卒。

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