分不相応な大型商談、中国で受注
富士通社長 田中達也氏(下)
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鉄鋼会社から石油化学業界へと担当が変わり、2000年に営業部長に就任する。
石油化学業界は富士通のシェアが比較的高い業界です。得意先だったある大手ではシステムのほとんどを富士通が手がけていたのですが、「いつも富士通でいいのか」との声が社内で上がるようになっていました。そうした不安を拭おうと、情報システム部長のところに通い詰めました。
少し親しくなれたかなという頃、得意先が経営統合先の企業と基幹業務システムを一本化する話が持ち上がりました。どちらのシステム会社に任せるかという時に、マンネリ化を恐れていたはずの得意先が「絶対に富士通を支援する」と言ってくれました。
得意先の希望に沿った提案で受注に成功。信頼関係が築けたタイミングで大きな商談が舞い込んだのは幸運でした。私は出会いの運が良かったんでしょう。部長だった3年間、すべての月で月額予算を上回る実績を残せました。
03年に中国・上海に赴任した。
中国赴任時は日中の優秀な部下に恵まれた(右から3人目)
「海外で営業をやりたい」とずっと思っていました。実は三度目の正直でした。米国やシンガポールに赴任するチャンスがあったのですが、他の人に決まってしまったのです。中国向けビジネスの復活を狙った社長直轄プロジェクトが動き出したころでした。
富士通は1980年代まで中国に進出していましたが、天安門事件などの影響でしばらく停滞の時期が続きました。01年に中国が世界貿易機関(WTO)に加盟したのを機に再び攻めの機運が高まったのです。当時の中国法人の社員数は百数十人。私が統括する日系企業向けの営業は約20人のチームでした。
上海で仕事を始めてすぐに感じたのが、中国人社員の優秀さでした。社員にそれぞれ現在の課題などを説明してもらったとき、「このメンバーとならいい仕事ができる」と思ったものです。
"分不相応"の大きな商談が持ち上がる。
狙い通り日本の大手企業が中国にどんどん進出し、売り上げは数年で4~5倍に増えました。そんなときに持ち上がったのが、大手電機メーカーの基幹業務システムの再構築プロジェクトです。数十億円ですが、日本でいったら小さなチームが100億円規模の案件を受注するようなもの。社内から「身の丈に合った商談に集中すべきだ」と反対する意見もありました。
ただ、私は日本から優秀な人材を送ってもらい、中国人のチームと組めばできると思っていました。結局、社内も支援に回ってくれました。日本から優秀なプロジェクトマネジャーを送り込むなど日中混成チームは外注も含め約200人の体制となりました。
そのシステムは納期よりも早く稼働し始め、以降もトラブルなしで動いています。「現地・現物・現実」。私のモットーです。メンバーや顧客を見て決めた私の判断を支持してくれた人たちのおかげで、富士通の中国法人は一気に成長できました。帰任した09年には500人以上の規模になっていました。
2000年ごろの米IT(情報技術)バブル崩壊で業績が低迷した富士通はソフトやサービスを主体とする事業構造への転換を急いだ。ハードディスク(HD)事業からの撤退や米コンピューター開発子会社アムダールの解体などを進めた一方、欧米のITサービス企業の買収を繰り返した。