「勘頼み人事」脱皮へ新制度 評価・配属にデータ主義
アサヒグループHD社長 小路明善氏(下)
アサヒビール社長時代の小路明善氏。左はラグビーの五郎丸選手(2015年12月、東京・港)
東京支社で6年間営業を担当し、1995年に人事課長に就いた。
人事部に希望を出したことはなく、青天のへきれきでした。経験もないので用語も仕組みもわかりません。人事に関する書籍を読みあさりました。そのころ管理職を対象にした人事制度の改定が進んでいました。年功序列による昇進を廃し成果に応じて上のポストに登用する、当時では異例の制度でした。その改定に関わり、社員の働きやすい環境を整えることこそ人事の役目だと実感したのです。
毎日の朝礼では、課員に「社員が戦える制度をつくれ」といつも檄(げき)を飛ばしました。自らも営業として最前線で戦った経験から、社員がのびのびと活躍できるよう「戦う人事」に脱皮すべきだと考えていました。それが社内にも伝わって「武闘派」のイメージがついてしまいましたが。
99年には自ら指揮して新しい人事制度を構築する。
労働組合の専従や人事などで「人材」と長く向き合ってきた
当時、人事評価は各職場で経験的になされていました。評価の基準もあいまいです。そこにメスを入れることにしました。いろいろ調べるうちに、「コンピテンシー」という仕組みがあることがわかりました。高い成果を上げている社員をモデルに客観的な評価基準を設けるものでした。
同じように仕事をしている営業マンでも成果は異なります。もともと優秀な人材には何か特性があるのではと感じていました。優秀な社員の実例を抽出すれば客観的な仕組みがつくれると。先進的な制度でしたが、反対もなく採り入れることができたのです。
制度と向き合うことで発見もありました。本来の能力よりも努力が大事だということです。努力をしやすくすれば、社員は実績を上げられるし成長できるのです。その考えは今も根底にあります。
2000年前後は「人材」に光が当たった。
バブル崩壊で高成長を望めなくなると、生産性という言葉に注目が集まりました。まさに人に関わる部分です。一方で、人材活用で経験や勘に頼る時代は限界を迎えたと感じていました。
当時、人事課長は分厚い資料を机に広げて100人以上の配属先をたった1人で決めていました。ただ、それだと最適に配置できないケースも少なくありません。そこで人事課員全員を集め、職務と社員の最適な組み合わせデータをパソコンではじいて決めることにしました。今では当たり前ですが、データ主義という考えを持ち込んだのです。
もちろんすべてうまくいったわけではありません。海外赴任が適任と判断した社員が家庭の事情ですぐに戻ってしまったことがあります。プライベートも考慮しながら一人ひとりに向き合う必要があるのだと、人事の難しさを痛感しました。
1994年にサントリーが麦芽の使用量を抑えた発泡酒「ホップス」を発売したのをきっかけに発泡酒ブームが起きた。ビールより価格が安い発泡酒はバブル崩壊後の消費の冷え込みを追い風に急速に浸透した。ビール各社は新製品を相次ぎ投入し、価格競争も激化した。