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私の履歴書復刻版

不況下、不眠不休で代金回収 ホンダ創業者 本田宗一郎(13)

2016/9/8

 世間では本田技研といえば株価が何倍になったとか言って、いかにも順風満帆で今日まで何事もなくきたかのように思っている人が多いが、やはり企業の存立にかかわるような苦しい時代を経てこそ今日があったのである。

 26年(1951年)ごろ、輸出振興と合わせて輸入防止を政府に頼むため民間業者の会合があった。だが私はそれに参加しなかった。輸出を政府に頼み、そのうえさらに輸入防止まで依頼しようという安易な道を選ぶことに強い反発を感じたからである。これはわれわれがあくまで技術によって解決すべき問題である。日本の技術がすぐれて製品が良質であるなら、だれも外国品を輸入しようとは思わない。また黙っていても輸出は増加するはずだ。そのとき私は“良品に国境なし”のことばを身をもって実現しようと決心した。技術を高め、世界一性能のいいエンジンを開発して輸入を防ぎ、輸出をはかろうというわけである。

 だが、無手で技術のすぐれたものができるはずがない。「弘法は筆を選ばず」という格言があるが、字を書くくらいならそれもできよう、しかし、現今の日進月歩の技術の世の中では、やはり筆を選ばなくてはならない。どんないいアイデアがあっても、それを表現する道具を持ち合わせていなくてはどうにもならない。マスプロ化ということになると、いっそうその必要性が高い。そこで、どうしてもいい外国の機械を輸入したいと考えた。

 当時は米国の援助資金は、高級外車とかウイスキー、化粧品など非生産的な消費財にばかり振り向けられ、生産面に寄与するものはほとんど輸入されていなかった。私はこの際生産機械を輸入すれば、たとい会社がつぶれても機械そのものは日本に残って働くだろう。それならどっちにころんでも国民の外貨は決してムダにはなるまいという多少感傷めいた気持ちもあった。

 いずれにせよ、このままでは世界の自由化の波にのまれてしまうことは必至である。世界の進歩から取り残されて自滅するか、危険をおかして新鋭機械を輸入して勝負するか、私は後者を選んだ。ともに危険である以上は、少しでも前進の可能性のある方を選ぶのが経営者として当然の責務であると判断したからである。こうして当時わずか6000万円の資本金しかない会社がストロームという自動旋盤やその他の工作機械をスイス、アメリカ、ドイツなどから4億円も輸入した。

 ところが運悪くも、これが28、9年(1953―54年)の不況時にぶつかってしまった。もともとだれの目にも冒険と映っていた輸入である。銀行が買い入れ資金を貸してくれるはずがない。そこで手形つまり時間を使ってこの苦境を乗り切ることにした。できた製品を売るそばからどんどん代金を回収して、買い入れた機械の代金を払い込む方法である。それが不況とかち合ったものだから、藤澤専務は文字通り不眠不休で金策に飛び歩いた。

 こうなった以上、私に残された道はただ一つ、ただしゃにむに前進あるのみだった。

「ホラ見ろ、本田のアプレが始まった」とかなんとかジャーナリズムにたたかれながら、1日でも早く金をかき集めて払うより道がない。このとき藤澤専務が考案した販売方法というのは製品出荷後十数日で代金を全部回収するというやりかたである。しかも75%は現金、あとは手形だが、それも問屋手形でなく、ユーザー自身の手形を問屋、代理店が裏判したものが会社にくる。現在とっているこの方式のもとは、この苦闘時代のたまものである。

 私はすぐかねの取れるいいものを作ることに専心し、専務は早く代金を回収できる方法を考えた。全社一丸となってこの不況を乗り切ろうと努力したが、その努力が理論的にもっと資金を早く回転する方法とか、時間を大事にするくせとなって現われた。本田技研の基礎はこのときに固まったといってさしつかえない。

 外国から機械を輸入する場合、それが日本の会社なり工場なりに到着してから、技術屋がインストラクション・ブック(説明書)と首っ引きで扱い方などの技術をおぼえるのが普通である。だが、そんなことをしていたのでは借金で買った機械の償却がおそくなる。そこで、機械据え付け工場の地盤を前もって整備し、機械がはいったその日からスイッチを入れ機械を動かす状態にしておくよう努力した。これまで扱ったこともない精密機械となるととおりいっぺんの予備知識では動かない。それをガムシャラにマスターさせた結果は、その後の生産技術のレベル・アップに非常に役立った。

 このことは輸入品だけでない。他の協力企業から部品を買い入れる際にも、たとえばカーボン含有量などもあらかじめ規格を設けておき、納入の際すぐ検査して入れるようでないと機械はすぐ回らない。そこで納入元の工場のレベルも上がった。

 こうして機械を高度に動かし、1日も早くペイすることに専念したのである。これが、うちの会社が時間をやかましく言い、大切にする習慣をつくるもととなった。

 こうして新機械輸入によって成長を試みた28、9年ごろの藤澤専務の苦労はひどいものだった。私は技術上の仕事をしているのであまりこたえなかったようなものの、彼はいまだに当時の苦しさを述懐する。彼の話によると、それはちょうど竹のふしのようなものである。竹は温暖なところではふしとふしの間がのんびりと伸びてしまうので、強風や雪にあうと折れやすい。しかし風雪に耐えうる竹はふしとふしとの間がせまく、ガッシリと育って強くたくましい。28、9年の苦しさというものは、非常に大きなふしの時期であったというのであり、私もまさにそのとおりだと思う。

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 この連載は、昭和37年8月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」をまとめた本「本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日、差別的とされる表現や法律に反する行為の記述がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。なお明らかに事実と異なる部分は削除しました。

[日経Bizアカデミー2012年3月15日付]

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