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私の履歴書復刻版

借り着で藍綬褒章を受ける ホンダ創業者 本田宗一郎(12)

2016/9/8

 E型エンジンの完成でドリーム号の評判は上がったが、当時としてはまだ高価すぎて簡単に普及するというわけにはいかなかった。そこで私は、もっと普及させるにはどうしたらいいかと考えた。なんといっても圧倒的に広く普及しているのは自転車である。そこで自転車に代わるようなオートバイを作らねばダメだと思った。

 これまでモーターバイクに使ってきたエンジンは、戦時中軍隊が使っていた通信機用エンジンの廃物利用から出発しているものだったから、重いし、能率も悪かった。こんどは自転車につけるエンジンを、とはじめからその目的で研究し、作ったのがカブ号のエンジンである。白いタンクに赤いエンジンというこのデザインは私が考案した。

 私は最初デザインというものは芸術家でなければできないものだと思い込んでいた。しかし、よく考えてみるとどうもそうとばかりは言い切れないような気がし出した。たとえば私の小僧時代、カフェーの女給さんはエプロンがけに髪は耳かくしというのが流行だったが、いまどきそんな格好で銀座を歩いたら、あまりに古典的すぎて気違いじゃないかと思われてしまう。つまりデザインというのは芸術と違って過去も未来も悪くたってかまわない。ただ現在の人にのみアピールすればいいんじゃないかと考えた。

 それなら私は人なみ以上にいろいろな方面に手を出し遊び歩いてもいる。おでん屋ではノミやシラミのようにのれんに頭をかくし、しりを出して酒も飲み、大衆の心は人一倍理解しているつもりだとうぬぼれていたから、そういう意味のデザインならおれもできると思って始めたのである。ところがカブ号のデザインを作ってみると案外の好評だったので、これならいけるぞと、この考え方に私はいっそうの自信を持つようになった。大衆はデザインを自分で考案しないが、すぐれたものをかぎわけ理解し、選び出す力を持っているのである。

 私は寝ていてもいいデザインが頭に浮かぶと、どんな深夜でもすぐ紙とえんぴつを持ってこいと女房にどなる。ある冬の夜のこと、私は寝室にはいってから考えごとをしていた。だが中華ソバ屋のチャルメラの音がどうにも耳についていけない。ソバ屋も商売、売るためには笛も吹かねばならないだろう。私は女房を呼んでその夜なきソバ屋が持っていたラーメンを全部買い取ってしまった。チャルメラの音が響かなくなったのはもちろんである。

 昭和27年(1952年)に私は小型エンジンの発明で藍綬褒章をいただいた。私は150にのぼる発明くふうの特許を得ていたのだが、受章の話を聞いて「政府にもなかなかそそっかしいやつがいるもんだな。おれのような人間を選ぶなんて……」と笑っていたところ、陛下にお会いするのだからモーニングを着用して来るようにと宮内庁からいってきた。もともと私は背広さえ持っていなかった。その人間がモーニングなど持っているはずがない。しかも私は表彰される側なのだから、何もそう堅苦しい思いをする必要はないと思った。そこで

「冗談じゃない。モーニングだけが礼服ではない。われわれにとっては、ふだんの仕事着こそ最もりっぱな礼服であるはずだ。もしモーニングでなければいかんというなら、そんなものはいらない」とゴネた。担当の通産省のお役人は困ったらしい。「私の方でなんとかモーニングをそろえておくから、当日はぜひそれを着て出席して下さい」と頼まれた。

 本心はモーニングがないからゴネただけのこと、そこまで言われては着て行くよりほかない。当日は藤澤専務がくめんしてくれた窮屈な借り物のモーニングを着用に及んで出かけた。私がモーニングを着たのはこれが生まれて初めてだった。だが、そのときの記念写真はなかなかピッタリととれていて、とても借り着とは思えない、よく似あうと知人に笑われた。

 藍綬褒章の授章式後、高輪の光輪閣で高松宮が晩さん会を開いてくれた。参加した受章者は老人ばかり、46歳の私が最年少者だった。そのとき高松宮は私に向かって

「本田、発明・くふうというのはずいぶん骨のおれることだろうな」とねぎらわれた。だが私はこうお答えした。

「殿下はそうお思いでしょうが、私にとっては好きでやっているのですから全部苦労とは思いません。世に言う“惚れて通えば千里も一里”というやつで人さまが見れば苦しいようでも本人は楽しんでいるのですから、表彰されようとは夢にも思っていませんでした」

 このときの「惚れて通えば……」というのも即座に出てきたたとえだったが、殿下にはよく理解できたかどうか。帰宅後、女房にその話をすると、私にまたうわ気の虫でも出たかとひどくしかられた。しまったと思ったがもうおそい。思わぬ伏兵に私はたじたじとなり、弁解にひと汗かいた。

 文化勲章はじめいろいろな褒章制度があるが、過去の貢献に応じてくれるからだろうが、受章者というとどうもこっとう品的老人が多過ぎる。将来もっと伸びる見込みのある若い者にやれば、たとい失敗はあっても大いに励みになる。その方がどれほど世間に貢献するかはかり知れないと思う。この点高松宮も同意見で、出席者の顔ぶれをごらんになると

「なんだこっとう品ばかりじゃないか。もっと若い人にくれるべきだね」と開口一番言われた。居並ぶお歴々も思わずにがい顔をしていたが、殿下にはこうした進取の面が多分にあるようで私はそのような殿下に心から敬意を表している。このときを機会にその後、汽車の中、飛行機の中などでときどきお会いするがそれから数年後の自動車ショーにみえられたときもこう言われた。

「日本の大臣とかおえらがたは、国産品愛用なんて言ってあんな性能の悪い国産車に乗ったりするからいけない。こんなものには乗れないと突っぱねれば一生懸命に研究するから、日本の自動車ももっと進歩するだろう」

 まさに正鵠(せいこく)を射た考え方だと思う。

 この間も埼玉工場に10時におみえになる約束だったので、私は15分前に行っていればいいだろうと出かけてみたら殿下はもう1人で来ている。会社の者があわを食ってどぎまぎしているところへ私が行きついた。「あれ、殿下もう来ちゃったの。約束と違うじゃない」こういった調子である。すると「うん、きょうはすいていたので案外早く来ちゃってなあ」と言われたので、みな肩の荷をおろしてホッとしたことがあった。

 このとき殿下がオートバイを見ながら「ぼくも子供のとき、これがほしくてハーレーとかインディアン、トライアンフなどのカタログを外国から取り寄せて研究していたが、とうとう買ってもらえなかった」と、さも残念だったように昔をしのんで話された。私は「そうでしょう。殿下は貧乏人の家に生まれましたからね」と言うと大いに笑われた。

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 この連載は、昭和37年8月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」をまとめた本「本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。文中には今日、差別的とされる表現や法律に反する行為の記述がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。なお明らかに事実と異なる部分は削除しました。

[日経Bizアカデミー2012年3月12日付]

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